主の湖上歩行 マルコ6章45-65節

 

 主イエスと弟子たちは何度もガリラヤ湖を舟で渡っていますが、今回は弟子たちだけです。なぜ弟子たちだけで渡ろうとしているのでしょうか。それは主が「弟子たちを無理やり舟に乗り込ませて、・・・先に行かせ」ようとされたからです。群衆は主が五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人々を養われるという奇跡を目の当たりにしました。主は彼らがご「自分を王にするために連れて行こうとしている」(ヨハネ6:15)のを知って、その扇動に弟子たちが巻き込まれないようにするために「無理やり」群衆と引き離されたのでしょう。

 後に残られた主は、群衆を解散させて「祈るために山に向かわれ」ました(46節)。主は精神的にも肉体にも疲れておられたと思いますが、父なる神との交わりのために人々から退いて祈る時を大切にもっておられたことがわかります(参 ルカ5:16)。

 マルコは主が祈っている場面を三回記しています(1:35,14:32-)。ゲツセマネの園ではどのようなことを祈ったのかが記されていますが、最初の場面と今回の場面ではその内容に触れていません。しかし、群衆の様々な必要を満たし続ける中で、ご自身が父から遣わされた本来の使命からそらさせようとする誘惑を退け、父の御心のうちを歩み続けるために、父との交わりを必要としておられたのではないかと思います。もし、主がそうであるなら、私たちも神によって今生かされている目的を再確認して、神の御心の中をしっかり歩み、おりにかなった知恵や力を得るために、人から退いて祈りの時をもつことを必要としているのではないでしょうか。

 主によって先に送り出された弟子たちは、向かい風との格闘を何時間も続けなればなりませんでした(48節)。先回の場合は(参 4:35-)、主がともに乗船しておられて、「黙れ、静まれ」との権威ある言葉をもって嵐の猛威を静めてくださいました。しかし、今回は主はおられません。あるのは暗闇と進路を阻む風だけです。

 逆風に悩まされる弟子たちの姿は、この世のさまざまな苦難という嵐の中で、不安や恐れに襲われる私たちの姿ではないでしょうか。信仰をもって歩むなら問題がなくなると考えているなら誤った期待をもっていることになります。主の御心を無視して歩もうとするなら多くの問題を招くことになるでしょうが、主の御声に従っていてもいろいろな苦しみ(健康、経済、人間関係など)に直面します(参 使徒14:22)。

 主は「苦難」にあわないとは約束されませんが、「しっかりしなさい」(サルセオー ヨハネ16:33では「勇気を出しなさい」と訳されている)と私たちを励ましてくださり、脱出の道を備えてくださるお方です(参 Ⅰコリント10:13)。

 弟子たちが向かい風に悩まされている中、主は湖の上を歩いて弟子たちに近づいていかれ、おびえる彼らを安心させています。そして、主が舟に乗り込まれると風はおさまり、弟子たちの心は非常な驚きに包まれました。先の嵐を静める奇跡を目の当たりにしたとき、弟子たちは「いったいこの方はどなたなのだろうか」(4:41)との問いを発していました。その後の五千人の給食の奇跡や今回の奇跡(湖上歩行、風が凪になる)をとおしても、弟子たちの心は主が何者であるか、という確信にまだ至っていないことがわかります(52節)。だれでも奇跡を目の当たりにするなら確かな信仰に導かれるに違いないというのは、残念ながら真実ではありません。弟子たちの「心の頑な」さを批判することは容易です。ところで、私たちは日々の生活の中にあって、主が本当に何者なのか、という理解をもって歩んでいるでしょうか。

         このメッセージは2024.3.10のものです。