休息の必要性と五千人の給食 マルコ6章31-44節

 

 今回の五千人の給食の奇跡は、四つの福音書すべてに出て来る唯一のものです(マタイ14:15-21,ルカ9:12-17,ヨハネ6:1-14)。マルコの福音書8章1-10節には四千人の給食の奇跡も記されています(参 マタイ15:32-39)。同じような奇跡ですが、詳細は異なるので、二つの奇跡が主によって行なわれた事がわかります(参 8:18-21)。



 主イエスの周りには、いつも大勢の人々が取り巻いていて、「食事をとる時間さえな」いような状況でした(31節,3:20)。十二人の弟子たちは宣教旅行から戻ってきたばかりで、休むことが必要であると主は判断し、弟子たちに「寂しいところへ行って、しばらく休みなさい」と命じられました。

 ここで主は休むことの必要性を認めておられます。休むことを怠けることと考えて(聖書には怠惰を戒める言葉もあるが)、休むことに罪悪感を覚える人がいるかもしれません。また、小さな会社では人員にゆとりがなく、自分が休むなら誰かにそのしわ寄せがいってしまうと考え休暇をとりづらい状況があるかもしれません。しかし、人は長期間の緊張や重圧にさらされ続けるなら、心や体に変調をきたしてしまうものです。働くことには生活もかかっているので重要ですが、休むこととのバランスがなければ、持続的で効率的な働きをすることは困難です。同じ畑に同じ作物を作り続け、土地を休ませることをしないなら、その畑はやがて痩せ衰えてしまうでしょう。休むことは一見何の生産性もないようにみえますが、リフレッシュすることであり、次の働きに必要な力を充電することなのです。

 五千人の給食の場面から読み取ることができることは、まず、そこにあわれみ深い羊飼いとしての主の姿を見るということです。主イエスはご自身を取り巻く群衆をご覧になって、「彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、・・・深くあわれみ、多くのことを教え始められた」(34節)とあります。羊の群れを養う真の牧者がいない状況はいつも悲惨です(当時の宗教指導者たちはその責任を果たしていなかった)。エゼキエルの時代には、その責任を全く果たそうとしない牧者(指導者)たちの罪が断罪され、「牧者がいない」(エゼキエル34:5)状況が描写されています。モーセは自分がまもなく死ぬことがわかり民を導くことが出来なくなることがわかったとき、民を牧する次の羊飼いを神に求めました(民数27:17)。

 主は病める人たちを癒やし(参 マタイ14:14)、みことばをもって霊的な糧を備え、その後、肉体の必要にも答えておられます。弟子たちは群衆の解散を願いましたが、主はヤコブの手紙2章16節にあるように、「満腹になるまで食べなさい」と言っただけで群衆を去らせるようなことはなさらなかったのです。主は群衆のさまざまな必要を理解し、その必要を満たすことができるあわれみ深い「良い牧者」(ヨハネ10:11,14)なのです。

 次に、主はわずかなものをご自身の働きのために大きく用いることができるということです。少年が持っていた「五つのパンと二匹の魚」(参 ヨハネ6:9)は、少年の食料としては十分なものであったでしょうが、男たちだけで五千人分の食料としてはあまりにもわずかすぎました。しかし、主はご自身の手に委ねられたその五つのパンと二匹の魚をもって、人々を十分に養い、パンの余りは十二のかごに残るほどだったのです。私たちが自分の賜物を自分で握りしめているならそのままでしょう。しかし、その賜物が主の手に献げられるなら、主はそれを大きく用いることができるお方なのです。

        このメッセージは2024.3.3のものです。