信じ続ける マルコ5章21-43節



 今回の箇所には、主イエスが長血をわずらっていた女性を癒やされことと(25-34節)、ヤイロの娘を死からよみがえらせたことが記されています(22-24,34-43節)。主がヤイロの家に行くまでの間に、長血をわずらっていた女の癒やしのエピソードが挿入されていることがわかります。

 今回、登場するヤイロと無名の女性は対照的な人物です。一人は男性であり、一人は女性です。ヤイロは「会堂司」です。「会堂」はユダヤ人たちの礼拝の場であり、彼らのコミュニティの中心で、「司」であったヤイロは人々から尊敬されていた人物であったでしょう。一方、女性の方は、出血の症状が続いていて、律法によれば儀式的に汚れた者(参 レビ記15:25-30)でしたから、彼女が触るものは汚れるので、本人も人々を避け、また人々からも避けられ、肩身の狭い思いで暮らしていたと想像されます。治療のかいもなく貧しくなるばかりで、精神的にも肉体的にも苦しみが続いて、希望を見出させない状況にあったのです。

 ヤイロは社会的な地位もあり、主イエスのもとにやってきて、公然と「死にかけてい」た娘のために懇願しています。一方、長血をわずらっていた女性は、主に直接触れることもはばかられる状態であり、人混みに紛れて、こっそりと主の衣に触ろうしています(参 6:56)。

 対照的な二人ですが、共通点もあります。それは「信仰」です。どちらも望みを主に託してやってきたということです(23,28節)。そして、主は二人の信仰に対する応答として恵み深いみわざを行なっておられるということです(34,36節)。すべてではありませんが、多くの場合、本人や家族などの信仰に答える形で主が癒やされていることは福音書全体から見ることができます(2:5,9:24,10:52など)。

 長血をわずらう女性は癒やされたあと、人混みに紛れてその場を去ろうとしていたでしょう。しかし、主が癒やされた人を知ろうとされたとき、彼女は隠れたままでいることはできませんでした。主は彼女が名乗り出て、「自分の身に起こったことを」話すようにしておられます。そして、主は彼女に「娘よ」と愛情を込めて呼びかけ、「あなたの信仰があなたを救ったのです」と、彼女の信仰を祝福しておられます。彼女は主との個人的な出会いをとおして、肉体の癒やしだけではなく、霊的な救いにもあずかったと読み取ることができるのではないでしょうか。そして、彼女は主によって新しい人生を歩み出すことができるようになったのです。

 長血をわずらっている女性と関わっていたために、ヤイロの家に行くのが遅れ、ヤイロの娘が死んだとの知らせがもたらされました(35節)。ヤイロはその知らせをどのような思いで聞いたでしょうか。望みが消えたように思ったでしょう。しかし、主は彼に「恐れないで、ただ信じていなさい」と彼を励まし、彼の家へと同行されました。主は信じることが困難な状況の中で、ヤイロに信仰を持ち続けるようにと言われたのです。

 私たちも人生の中で、ヤイロのように信頼し続けることが困難な状況に直面します。ベタニヤの姉妹マルタもマリアもきっとそうだったのではないでしょうか(ヨハネ11章)。マルタもマリアも、そしてヤイロも彼らの願ったとおりにはなりませんでしたが、彼らの思いを超えた主のみわざを見ることになったのです(ヨハネ11:44)。信じ続けることも主の確かな言葉に基づきますが(36節)、主は信頼する者を失望させることのないお方です(参 ローマ10:11)。信仰を持ち続けていきましょう(参 ヘブル11:6)。


           このメッセージ2024.2.11のものです。