罪人との交わりと断食をめぐる論争 マルコ2章13-22節 


 

 今回の箇所には、「罪人との交わり」をめぐる論争(13-17節)と「断食」をめぐる論争(18-22節)があります。

 一つ目の論争(対立)が起こったのは、「レビ」(マタイ)が開催した盛大な宴会に、パリサイ人が嫌っていた大勢の「罪人や取税人」たちも招かれていて食卓に着いていたからです。それを見たパリサイ人は「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか」と批判しました(参 ルカ15:1-2)。自分たちの律法の伝統に従って歩もうとしない人々との交わりによって自分たちが汚されると考えていたパリサイ人にとって、主イエスの行動はあまりにもラディカル(急進的)であったのです。

 主は批判に対して、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」(17節)と、ことわざを引用され、ご自身の働きにそれを適用されました。主はご自身を医者にたとえて、ご自身がこの地上に来られた目的は、自分を正しいと考えている者(神の前に「正しい人」はいないが、パリサイは、自分を正しく罪の赦しを必要としていない者と考えている)ではなく、罪という病気を自覚している者を癒やすためであると答えられました。

 パリサイ人は取税人や罪人たちを、自分が汚されないためには遠ざけるべき取るべき存在として見ているのに対して、主は彼らを愛すべき存在として見ていて、彼らを「悔い改め」(ルカ5:32)へと導くために交わりをあえて厭わないのです。

 二つの目の論争(対立)は、「断食」をめぐるものでした。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子」は断食をしていたのに、主の弟子たちは断食をしていなかったからです。パリサイ人は週に二度の断食を行っていました(参 ルカ18:12)。なぜ律法に命じられていない断食を行っていたのでしょうか。おそらく自分たちの敬虔のあかしと考えていたのでしょう。バプテスマのヨハネの弟子たちは、来たるべきさばきに備えての悔い改めのあかしとして断食を行っていたのかもしれません。

 主は弟子たちが断食しない理由を、ご自身を「花婿」に、弟子たちを「花婿に付き添う友人たち」にたとえて、「花婿が一緒にいる間は、断食できないのです」と答えられました。当時の婚宴は一週間に及ぶものであったといわれます。喜びの祝宴に断食はふさわしくないでしょう。しかし、主は「花婿が取り去られる日」には「断食をします」と、適切な時には弟子たちが断食をすると答えておられます。

 主イエスは新しいもの(キリストにある生き方)と古いもの(形骸化したユダヤ教の伝統に縛られた生き方)が相いれないことを二つのたとえで説明しています(21,22節)。一つは、着古した衣に「真新しい布切れ」で継ぎ当てをするなら、洗濯したときに強い新しい布切れが古い衣を引き裂いてしまうことをあげています。もう一つは弾力性を失ってもろくなった古い皮袋に新しいぶどう酒を入れるなら、新しいぶどう酒の発酵の圧力に耐えられずに古い皮袋が裂けてしまうことをあげています。

 主は断食を禁じたり、批判はされませんでした。しかし、形式的で強制化された断食は、主によってもたらされた新しいいのちから、自由や喜びを失わせるものであることを示されたのです。


          このメッセージは2023.12.10のものです。