マルコの福音書について マルコ1章1節
「マルコの福音書」は歴史的にはあまり人気のない福音書でした(重要ではないということではない)。その内容の多くがマタイ(及びルカ)に含まれていて、その要約版のように見られていたからです。しかし、19世紀半ばになると、四つの福音書の中で最初に書かれた福音書ではないかという説が唱えられ始めました。そして、今日多くの学者はマルコの福音者が最初に書かれた福音書であると考えています。もし、マタイやルカが「マルコの福音書」を知っていて、それを参考にして福音書を書いたとするなら、「マルコの福音書」の重要性が注目されることは当然でしょう。
「マルコの福音書」は最も短い(16章)福音書です。マルコには、主イエスの降誕や復活の顕現の話も出てきません。マタイにあるような素晴らしい説教(5-7章「山上の説教」)もありません。ルカにおいて良く知られているような「たとえ話」もありません。ヨハネにあるような「わたしは~です」という主イエスの自己啓示のことばも聖霊についての貴重な教え(14-16章)もありません。ある意味で「マルコの福音書」は地味な福音書と呼んでいいかもしれません。
講解説教を始めるに際して、マルコの福音書の著者はだれか、いつ、どこで書かれたのか、誰を対象に書かれたのか。また、マルコの福音書の特徴は何か、構成はどのようになっているのか、書かれた目的は何かを簡単に見ていきましょう(著者~特徴については、スペースの関係で省略します)。
構成については全16章を、ペテロがピリポ・カイサリアで主イエスを「キリスト」と告白する場面(8:27-29)の前と後の二つに分けることができるでしょう。前半には主イエスがガリラヤ宣教において多くの奇跡をなされたことが記されていて、そこに主イエスの神的権威が示されています。それがペテロの告白に結びついていると言えるでしょう。
後半のペテロの告白の後では、主イエスはご自身の受難の告知を三回しておられ(8:31,9:31,10:32-33)、ご自分がどのようなキリスト(メシア)なのかを示しておられます。しかし、残念ながら、弟子たちはその告知を正しく理解できていないことがわかります(8:32,9:32,10:35-)。彼らにとってのキリストは、ローマの支配から解放する政治的、軍事的王であって、十字架にかかって死なれるようなお方ではなかったからです(参 Ⅰコリント1:23)。しかし、主は告知を繰り返して弟子たちをご自身の死に備えさせ、十字架の死に向かって行かれ、実際に十字架の死を遂げられるのです。
書かれた目的は何でしょうか。マルコだけでなく、四つの「福音書」に共通して言えることですが、福音書は単なる伝記や歴史ではなく、「良い知らせ」(福音)を宣教し、それに対する応答へと導くために記されたということです(参 ヨハネ20:31)、そのように考えるなら、マルコの福音書の一つの目的は、読者に正しいキリスト理解を示し(10:45)、そのお方に対する信仰へと導くためであったと言えるでしょう。
もう一つはキリストの弟子の道を示すことです。主イエスの受難の告知の後の文脈をみると、主は弟子の道が犠牲を払い、仕えることであることを繰り返し教えておられることがわかります(参 8:34-35,9:35,10:43-44)。ある学者は「マルコの福音書は、苦しみ、迫害されていた教会に向けて書かれたことはほぼ間違いない」(Strauss)と述べています。マルコは、キリストの御足跡に従うことは安易な道ではないことを示し(8:34-35)、読者たちが直面する試練を乗り越えることができるように、彼らの信仰を励ますためにこの福音書を書いたと言えるでしょう。
このメッセージは2023.11.5のものです。