死から逆算して生きる 伝道者の書9章1-18節

 

 伝道者は人生において確かなこと(2-6節)と不確かなこと(11-12節)を述べ、その間をどのように生きるべきかを教えています(7-10節)。 

 

 私たちの人生において確かなこととは何でしょうか。それは伝道者が「結末」(ミクレー)と呼んでいる死です(参 2:14,3:19)。伝道者は、五つの対照的な人々をあげて(2節)、どのような人であっても死を免れることができないことを強調しています。一つ目にあげられているのは、「正しい人」と「悪しき者」です(次の「善人」だけ対になっていない)。二つ目は「きよい人」と「汚れた人」です。三つ目は「いけにえを献げる人」と「いけにえを献げない人」です。つまり、神を礼拝する人とそうでない人のことでしょう。四つ目は「善人」と「悪人」です。五つ目は「誓う者」と「誓うのを恐れる者」です。「誓うのを恐れる」とは、自分のことばを守るつもりがないので、拘束力のある約束を避けるということでしょう。死においては「正しい人」や「善人」が「悪しき者」や「罪人」よりも優位にあるわけではありません。

 伝道者は死を「日の下」における「最も悪いこと」と述べています(3節)。なぜなら、伝道者は生きていることに希望をおいているからです(伝道者は死後の希望については語らない。参 ピリピ1:21-23)。そのことは「生きている犬は死んだ獅子にまさる」ということばに見ることができます。伝道者にとって、死はこの世との関わりを失うことであり、生きているということは様々な機会を手にしていることを意味するのです。

 伝道者は私たちの人生が予測できない不確かなものであることを述べています。競走において速い者が、また戦いにおいて勇士が勝利するとは限りません。また、「知恵のある人」「悟りのある人」「知識のある人」が糧を得て、豊かになり、人々の好意を得ることができるとは限らないからです。人は「時と機会」を支配している者ではないので、人生には不確かさが常に付きものなのです(11節)。

 気持ちよく泳いでいた魚が網にかかり、ふと舞い降りた鳥が罠にかかるように、人にもわざわいが予期せぬ時に突然として訪れるのです(12節)。すべてが神のご支配のうちにあることは理解していても、具体的に自分がどのような取り扱いを受けることになるのかは分からないのです(1節)。

 伝道者は確かなことと不確かなことの間にあって、今をどのように生きるべきか、いくつかの具体例を挙げています。最初にあげられているのは「食べる」ことや「飲む」ことです(参 2:15,3:13,5:18)。きわめて日常的なことです。次に「いつも白い衣を着」て「頭に油を絶や」さないことです(8節)。快適さや喜びが背景にあるのでしょう。喪の日には「白」や「油」は好ましくないでしょう(参 Ⅱサムエル14:2)。次に「愛する妻と生活を楽しむ」(共同訳「愛する妻と共に人生を見つめよ」)ことです(箴言5:18)。人生のパートナーは神が与えてくださった者であり(参 箴言18:22,19:14)、そのパートナーと共に人生を見つめることは、人生の労苦に対する神からの「受ける分」(へーレク 9節の「分」は6節「受ける分」と同語)なのです。

 伝道者が示す生き方は、禁欲主義でもなく、また享楽主義でもありません。人生を神の賜物として感謝して喜ぶ生き方です。伝道者は死から逆算して生きる視点を私たちに教え、今を生きよと勧めているのです。


                  このメッセージは2023.5.28のものです。