知恵によって生きる 伝道者の書7章1-14節

 

 伝道者は、AはBに「まさる(よい)」(トーブ)という定式のことばを繰り返しています(1,2,3,5,8節)。2章13節には「知恵は愚かさにまさっている」(2:13)と言っていましたが、ここでは愚かさにまさる知恵が示されています。伝道者は何が「まさる(よい)」と言っているのでしょうか。

 一つ目は「名声」(直訳「良い名」トーブ・シェーム)です。「名声」はその人の人格から出てくる良い評判のことです。それと比べられている「良い香油」(シェメン・トーブ)とは、今日で言うなら高級化粧品と言ったところでしょう。内面は見た目(外面)より重要であるということです。

 二つ目は「死ぬ日」です。それと比べられているのは「生まれた日」です。「死」の先に確かな希望(御国への)があるならばそのように言えるでしょうが、通常なら誕生の日の方が喜ばしく、良いということになるのではないでしょうか。ではなぜ伝道者は「死ぬ日」がまさると言っているのでしょう。続く2節を読むと「祝宴の家に行く」ことと「喪中の家に行く」ことが比べられ、「喪中の家に行く」方がよい理由が示されています。人の終わりである「死」を「心に留めるようになる」からです。そして、伝道者は「知恵のある者の心は喪中の家にあり」、「愚かな者の心は楽しみの家(共同訳「喜びの家」)にあると述べています(4節)。

 私たちは「死」と隣り合わせに生きていながら、普段はなるべく「死」のことを考えないように生きています。しかし、「喪中の家に行」き、誰かの人生の終わりに立ち会うときに、いつかは自分の番が来ることを考え、限りある人生をどのように生きるべきかということに向き合わされます。伝道者は、「祝宴の家」や「楽しみの家」に行くことを否定しているのではありません。もし「祝宴」や「楽しみ(喜び)」が、現実から私たちの心をそらし人生を真剣に考えることから遠ざけているなら、知恵がないと言っているのです。詩篇の作者は、残された人生をよく生きることができるように「知恵の心」を求めています(参 詩篇90:12)。それは賢明なことなのです。

 三つ目は「悲しみ」(共同訳「悩み」)です。「笑い」と比べられています。6節には「愚か者の笑い」が、「鍋」(シール)の下の「茨」(シーリーム)がはじける音にたとえられています。「茨」はすぐに火がついて威勢の良い音を立てて燃えますが、すぐに燃え尽きてしまいます。一時の騒々しい笑いより、「悲しみ」の方がまさるのは、悲しみは本当の慰めがどこにあるかを考えるように導くからではないでしょうか(参 マタイ5:4、Ⅱコリント7:10)。

 四つ目は「知恵ある者の叱責を聞く」ことです(参 箴言6:23,12:1)。比べられているのは「愚かな者の歌を聞く」ことです。祝宴の家の「笑い」「歌」「喜び」も悪くないでしょう。しかし、一時的に気分をよくする歌よりも、叱責を聞くことによって人生を正す機会を得るなら、なんと貴重なことでしょうか。ダビデは預言者ナタンから罪を指摘されたときに悔い改めて人生をやり直すことができました(参 Ⅱサムエル12章)。

 最後は「事の終わり」と「忍耐」です。それに対比されているのは「始まり」と「うぬぼれ」です(8節)。結果が明らかになるのは「始まり」ではなく「終わり」だからです。良い結果を得ようとするなら「うぬぼれ」にまさる「忍耐」が必要です。 [続く解説は,後で説教集を見てください]


           このメッセージは2023.4.30のものです。