力のある者と争わない 伝道者の書6章1-12節

 
 

 伝道者は人生を支配している「悪しきこと」(共同訳「不幸」)を見たと、その具体例に言及しています(1節)。それは「神が富と財と誉れを与え、望むもので何一つ欠けることがない」という恵まれた人に、それらを楽しむことを神が許さないということです。5章19節では神が与えた「富と財」を楽しむことが許されているのとは対照的です。さらに、それを楽しむのが「見ず知らずの人」、すなわち家族ではない他の人なのです。その理由は明らかにされていませんが、戦争や事業の失敗によってでしょうか。伝道者は「これは空しいこと、それは悪しき病だ」と述べています。

 次に伝道者は、極端な人のケースを想定しています。多くの子どもたちに恵まれ、長寿であることは、祝福された人生であるかのように思えますが、「彼の魂」(直訳)は、「良き物に満足することなく」「墓に葬られ」ないという老人です。墓に葬られないというのは大きな恥辱です。家族の中に何があったのかはわかりませんが、彼の死を本当に悲しみ嘆いてくれる人がおらず、孤独に人生を終わらなければならなかったのでしょう。満足を知らない神なき人生の悲惨と言っていいでしょう。

 伝道者は、先のような老人と「死産の子」を比べて、「死産の子」の方が「ましだ」とさえ述べています。「日の光を見ず」、すなわち、この地上の人生を経験することもなく、その名は記憶されずに忘れられてしまうような存在と比べているのです。死産の子の方が、先の老人のような苦悩や不幸を経験しないので「安らかだ」と言うのです(5節)。

 伝道者は7-9節で、人の飽くなき欲望によって魂が満たされることがないことを指摘しています。そしてまた、「目が見ること」は「欲望のひとり歩き」(「欲望がさまよう」とも訳せる)にまさると述べています。より多くのものを得るために労苦するより、今あるもので満足する方がよいと述べているのでしょう(参 ヘブル13:5)。

 伝道者は10-12節において、一つの生き方をほのめかしています。それは「力のある者」と争わない生き方です。「力のある者」については、死の意味に解する人もいますが、神を指していると考えた方がいいでしょう。神はすべてのものを「名」で呼ばれる方、つまり、それらに対して権威をもち、支配しておられる方です。その方は人間がどのような者であるかもご存じの方です。

 ヨブは自分に下された災いについて、自分の潔白を神に訴えたいと望みました(ヨブ13:3,23:4)。しかし神は、彼に対して、ご自身が自然界を支配しておられる知恵と力を示そうとするだけでした(ヨブ38:1-40:1)。そしてヨブはそのような神の前に自分が不遜であったことを認め、悔い改めています(ヨブ42:1-6)。災いの意味が彼に説明され、彼がそれに納得できたからではありません。神と言い争うことの愚かさがわかり、神が信頼できる方であることを認めることができたからです。

 伝道者は、「何が人のために良いことなのか」「だれが知るだろうか」と、また、その人の残りの人生において何が起こるかを「だれが人に告げることができるだろうか」と、問いかけています。「だれが?」、神以外にそれを知り、また人に告げることができる者はいません。ですから伝道者は、私たちに神と争うのではなく、神に信頼し神とともに歩む中で、その人生を神に導いていただくことが良いことなのだ、とほのめかしているのです(参 ミカ6:6)。


                このメッセージは2023.4.23のものです。