富を追い求める人生 伝道者の書5章1-20節
伝道者は富を追い求めて生きる空しさを指摘し、それに代わる生き方をここで示しています(10-20節)。伝道者はなぜ富を追い求めて生きることが空しいと言っているのでしょうか。
一つ目は、富は満足をもたらさないものだからです。金銭を愛する者は・・・満足しない」「富を愛する者は・・・満足しない」と同じ内容を繰り返しています。どれだけ獲得してもそこに満足が見いだされないというのは悲惨であり、空しいことではないでしょうか。
二つ目は、富はそれ目当てにする人々(「寄食者」直訳「それを食う者」)を引き寄せるからです(11節)。富が増えれば無駄な出費も増えるでしょう。高額の宝くじが当選した人に多くの人が群がり、その人はすぐにすべてを失ってしまったという話を聞いたことがあります。
三つ目は、富が増えれば心配も多くなるからです。富が増えればそれを管理するための心配やそれを失うことへの不安も増えるでしょう。そのために安眠が妨げられるということもあるでしょう。貧しいのは辛いですが、少なくとも失うことを心配することはないでしょう。
四つ目は、富は信頼できるものではなく、一瞬にして失うかもしれないものだからです。蓄えられた富がどのように害をもたらすのかは明らかにされていませんが、富の誘惑によって快楽に身を持ち崩したり、富によって犯罪に巻き込まれることもあるでしょう。また投資によって大もうけすることもあれば、逆に一瞬にしてすべてを失うことだってあり得ます。
五つ目は、死後に富を携えて行くことはできないからです。伝道者は、「母の胎から出てきたときのように、裸で、来たときの姿で戻って行く」、「出て来たときと全く同じように去っていく」と述べています(参 ヨブ1:21,詩篇49:17,Ⅰテモテ6:7)。
いかに労苦して富を築いても、死ぬときには何も携えていくことはできず、すべてを置いて去らなければならないとするなら、それまでの労苦は「何の益になるだろう」との思いに至っても不思議ではありません。それまでの労苦が「闇の中で食事をする」ような、悲惨の連続のようなものであるなら、なおさらのことではないでしょうか。
伝道者は、富を追い求め、富に執着する(信頼する)生き方とは異なる生き方を提示しています。18-20節には、「神」という言葉が4回出てきます。そこでは神は与える方として表現されています。18節とほぼ同じ内容が19節でも繰り返されていますが、そこで示されているのは、労苦の結果(「受ける分」)を神からの賜物として喜び今を楽しむという生き方です。このような今を楽しむ生き方は、伝道者の書で繰り返されています(2:24-25,3:13,22,8:15,9:7-9)。それは「頼りにならない富にではなく・・・すべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置」(Ⅰテモテ6:17)く生き方と言い換えてもいいかもしれません。神への信頼がその人を思いわずらいから解放し(参 マタイ6:31-34)、神が与えてくださる喜びを自分のものとできるようにするのです。
伝道者が示す生き方は、今日の私たちを「食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すために」(Ⅰコリント10:31)する生き方へと導くものとなるのです。
このメッセージは2023.4.16のものです。