神のご支配 伝道者の書3章1-22節
伝道者の書の中でも、「~に時がある」(2-8節)というこの箇所は特に知られているのではないでしょうか。人がその誕生から死に至るまでの間に経験するさまざまな「時」(エート,28回)が十四組の美しい対句として表現されています。
伝道者は「すべてのことには定まった時期があり、・・・すべての営みに時がある」(1節)と告白していますが、すべての事は事前にプログラムされていて、すべてが機械的にそのとおりになるという宿命論や運命論を展開しているのでしょうか。もしそうなら、私たちにはあきらめや絶望しか残されていないでしょう。しかし、そうではありません。伝道者は、すべての時を神がご支配しておられ、「すべての営み」が神の主権のもとにあることを認めているのです。そして「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(11節)と、神のご支配の素晴らしさを賛美しているのです。
神は私たちの心に「永遠」、つまり時間を超えた過去や未来を知りたいとの思いを与えられましたが、人間は有限であり、残念ながら「神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることはでき」ません。神のなさるみわざが分からないということは、神が信頼できないということを意味するのでしょうか。そうではありません。なぜなら、神は私たちを愛するゆえに「ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された」(ローマ8:32)お方であるからです。
神は、人間のように失敗してその計画を変更したり軌道修正したりしなければならないお方ではありません。ご自身の知恵によって事を完全になすことができるお方です。その神が人に求めておられるのは、神の主権を謙遜に受け入れて、そのお方を「恐れるようになる」ことなのです(14節)。
伝道者は、「日の下」の「さばきの場」、「正義の場」、つまり法廷で「不正がある」と繰り返して、社会の問題に目を向けています(16節「私は・・・見た」)。そして、二つのことを自らに言い聞かせています(17,19節「私は心の中で言った」2:1,15)。一つは神がさばきの時を定めておられるはずだということです。もう一つは、不正がはびこっているのは、罪の堕落によって、人が「獣」(共同訳「動物」)のような存在になり果てていることに気づかせようとしておられるのだということです。
伝道者は、2章で「知恵ある者」と「愚か者」が「同じ結末」(死)を迎えることに「空しい」と述べていました(2:14,15)。ここでは「人の子」と「獣」がその「息」(ルーアハ)を取り去られて同じように死ぬなら、人は獣にまさっていないではないか、「空しい」と告白しています。そして息をもつものが「ちりから出て」「ちりに帰る」現実を述べ(参 創世記3:19、詩篇104:29)、「人の子らの霊(息)は上に昇り(参 12:7)」、「獣の霊(息)は地の下に降りていくのを」「だれが知っているだろうか」(「誰も知らない」と同義)、と死後については明確なことを語ろうとはしません。そして伝道者は、ここでも今与えられている生を、神の前に喜び楽しむことを肯定しています(22節 参 2:24,25,3:12,13)。
神のみわざは完全です。しかし、私たちは神のなさる事がわからず悩み苦しみます。ヨセフの生涯において、神がヨセフの兄たちがなした悪さえも善に変えて(創世記50:20)ご自身の栄光を表わされたことを覚え、神のご支配を謙遜に受け入れ、信頼していきましょう。
このメッセージは2023.3.26のものです。