空しい理由 伝道者の書2章12-26節

 

 伝道者は今回の箇所においても、「日の下」(17,18,19,22,23節)で「空しい」(15,17,19,21,23,26節)と連発しています。彼の空しさは、人間が避けられない「死」に関連していることがわかりますが、その空しい理由を具体的に見ていくことにしましょう。

 空しい理由の一つ目は、「知恵ある者」も「愚かな者」も「同じ結末」、つまり死んで、人々から同じように忘れ去られてしまうということです。伝道者は、先に知恵の空しさや知恵によってかえって悩みが多くなったことを訴えていましたが(1:14,18)、知恵を否定しているわけではないことは、「知恵は愚かさにまさっている」(13節)ということばからわかります。愚かな者とは違って(参 箴言4:19)、知恵ある者は先を見通すことができ、しっかり歩むことができるからです。

 しかし伝道者は、愚かな者も知恵ある者も結局は「同じ結末」(14,15節、共同訳では「運命」。「結末」はその後も死に関連して用いられている。3:19,9:2,3)に行き着くなら、自分の知恵が何になるだろうと思っています。死が避けられないならせめて人々に記憶されたいと願っても、同じように忘れ去られてしまうのです(参 1:11)。そのことを考えたとき、「生きることを憎む」ほど空しい思いに満たされています。

 毎年その知恵や功績を評価されるノーベル賞受賞者たちのことを考えてみてください。一時的には高く評価される彼らですが、人々の記憶から同じように忘れられてしまうのが現実ではないでしょうか。

 空しい理由の二つ目は、自分の一切の労苦の結果を手放し、後継者に委ねなければならないということです(18-21節)。後継者が「知恵ある者」であるならまだしも、もし「愚か者」であるなら、その労苦をすべて水の泡にすることだってあり得るわけです。

 イスラエル王国はソロモンの時代に絶頂期を迎えました。しかし、ソロモンの後継者レハブアムの時代に王国は北と南の二つに分裂してしまいます。それは、レハブアムが父に仕えた長老たちの賢明な助言を退け、自分に仕える苦労知らずの若者たちの助言を愚かにも採用したからです(Ⅰ列王12章)。後継者によって自分の労苦が台無しになってしまうと考えるなら、空しい思いになるのではないでしょうか。

 空しい理由の三つ目は、労苦そのものです(22,23節)。人の労苦は罪の堕落によってさらに重く辛いものとなってしまいました(創世記3:17-)。「過労死」という日本語は、残念なことに今や世界中で通じるようになってしまっています。不安やストレスによって不眠になり、どれだけの人々が心を病んでいることでしょうか。そのような状況でも労苦を担い続けなければならない人生には、どのような意味があるというのでしょうか。

 伝道者は、「日の下」で今をどのように生きるか(参 24,25節)、ということに焦点を当てているので、死後の希望については語りません。しかし、私たちは新訳聖書の啓示に基づいて、死が終わりではなく、「最後の敵」と呼ばれる「死」についての勝利があることを知っています。なぜならキリストを信じる者は、キリストが復活されたように復活することを約束されているからです(参 Ⅰコリント15章)。

 主にある者たちを、また主にある労苦を、主は忘れず覚えてくださるお方です。ですから、私たちは自分たちの労苦を主に委ね、人々から忘れ去られても空しくなることはないのです。


              このメッセージは2023.3.19のものです。