知恵と快楽の追求 伝道者の書1章12節-2章11節

 

 

 伝道者は、空しい人生から解放され満たされた人生を送るために、二つの方策を試しています。一つは知的追求によって(13-26節)、もう一つは快楽の追求によってです(2章1-11節)。

 12節から伝道者が「私は」という一人称で語り始めています。そして、知的探求を極めようと決意しています(13節)。「一切のことについて」とあるので、その領域は、単に人生の意味や充足だけではないことがわかります。彼は、その探求を「神が・・・与えられた辛い仕事(共同訳「務め」)だ」と述べています。時々妻は、我が家で飼っている猫を見て、「プリンはいいなぁ」と口にします。確かに、猫は自分のニャン生の意味を問いかけず、悩んだりしないで生きていると思うので、少し共感したくなります。しかし、神は私たち人間に、生きる意味を問いかけ、苦悩し、そしてご自身へと導こうとされているのだと思います。

 伝道者は、知的探求の結果について、「すべては空しい、風を追うようなものだ」と述べています(14,17節)。「風を追うようなものだ」とは、風を捕まえることはできないので、目的を達することはできないという意味です。

 伝道者の知的追求を現代風に表現してみましょう。「私はいくつもの有名大学で哲学や社会学や科学を長年にわたって研究をし続けてきた。私の書斎の壁には、学位の証明書がずらりと並んでいる。それを誇りに思ったこともあった。でも、実は正直に言うと空しい思いを抱えたままなんだ。何か大切な一つのピース(真理)が欠けているように思えるんだ」。

 伝道者は、次に「快楽」(共同訳「喜び」)を追求しています。1節の「楽しんでみるがよい」は直訳すると「良いものを見るがよい」です。「良いもの」とは「幸せ」のことでしょう。彼は快楽によって満たされることを求めたのです。

 4節以降には彼が成し遂げた数々の事業や彼が所有した富などのことが述べられています。彼は王として自由にできる資源(経済的、人的)をフル活用しました。4-8節には、訳されていませんが、八回繰り返されていることばがあります。それは「自分のために」ということばです。彼のすべては自分の幸せを見いだそうとするものであったのです。

 伝道者の快楽追求を現代風に表現してみましょう。「私には、ビバリーヒルズに広大な庭とプールつきの豪邸がある。車庫には用途別に何台もの高級車が並んでいる。屋敷には大勢の専属スタッフが常駐していて、定期的に盛大なパーティーが開かれている。私は、いくつもの会社を経営し、プライベートジェットで世界中を飛び回っている。世間では最も成功した実業家として高く評価され、タイム誌の表紙を何度も飾ったことがある。私の名を知らない人はいないと思う。公には知られていないが、世界中にたくさんの愛人を囲っている。・・・・でも私の心は少しも満たされないのだ」。

 私たちが自由にできる資源はわずかなものです。ですから、もっと多くの富があったなら、これもできる、あれもできるのに、そうしたらきっと幸せになれるのに、と思ってしまいます。しかし、私たちは伝道者の結論にしっかり耳を傾けるべきではないでしょうか。伝道者の言葉を少し言い換えるなら、彼は自分のしてきたことは波打ち際に砂の城を築きあげるようなものであった、と言っているのです。神の栄光のためではなく、「自分のために」築き上げた砂の城は時代の波にすぐに消されてしまうものなのです。


            このメッセージは2023.3.12のものです。