大事なこと ガラテヤ5章1-12節
パウロは、1節で「自由」(名詞)と「自由にする」(動詞)を用いて、キリストが自由を与えてくださったことを強調し、自由を失わないようにと勧告しています。
ところで、キリストが与えてくださった自由とはどのようなものでしょうか。一つは、神に受け入れられるためには律法を守らなければならない(しかし、守れない現実を抱えている)という苦闘から解放されるということです。もう一つは罪が赦されて罪責感から解放されるということです。さらには、聖い神の前におそれることなく自由に近づくことができるということでしょう(参 ヘブル4:16)。
ガラテヤの教会には、神に受け入れられる(義と認められる)ためには、キリストを信じるだけではなく、律法(たとえば「割礼」。割礼が問題となっていることは、すでに2章3,4節にほのめかされていた)も守らなければならない、という誤った教えを説く者たちがいました。
パウロはそのような誤った教えの危険性をここで指摘し、もし割礼を受けるならば深刻な結果をもたらすことになると警告しています。「キリストはあなたがたに何の益ももたらさないこと」になり(2節、参2:21)。さらには、「キリストから離れ、恵みから落ちてし」まうとしています。つまり、「キリスト」に「割礼」を追加しようとするなら、「キリスト」を失うことになると警告しているのです。だれも両方を選ぶことはできず、「割礼」か「キリスト」か、どちらかを選ばなければならないのです。
パウロは、5,6節で「信仰」を強調しています。4節までの「あなたがたは」から「私たちは」と言い換えて、すでに信仰によって義と認められている私たちは「義とされる望み」(直訳「義の望み」。第三版「義をいただく望み」)、すなわち、将来の救いの完成を今、「信仰により、御霊によって待ち望んでいる」者であるとし、「割礼を受ける受けない」は大事なことではなく、「愛によって働く信仰」が大事であるとしています。なぜなら、生きた信仰は愛によってあらわされるものだからです。
7節で、パウロは「あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたの邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか」と問いかけをしています(3:1)。「だれが」とは、もちろん偽教師たちのことです。パウロは彼らの危険性を指摘し、警告しています。それは彼らが真理に従わないようにする者だからです。そして、彼らの教えの起源は神からのものではないとし(8節)、彼らの悪影響が大きいことを格言(9節「わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませる」)を用いて説明しています。そして、誤った教えによってガラテヤの信徒たちを「動揺させる者」に対する神の裁きを確信しています(参 1:8,9)。12節では、彼らを「かき乱す者」と呼んで、「去勢してしまえばよい」(欄外注)とさえ言っています。過激な発言ですが、神の民と福音の真理を愛する故のことばと理解していいでしょう(参 申命記23:1)。
私たちは、偽教師たちの誤った教えに惑わされることなく、何が大事なことなのかを見据えて、今を生きる必要があります。
このメッセージは2023.1.15のものです。