ガラテヤ4章21-31節 奴隷の子どもと自由の子ども

 今回の箇所を理解するためには、創世記16-21章の理解が必要です。パウロは、神に受け入れられるためには律法を守る必要があると考えている人々に対して、比喩を用いて彼らが誰を母とする子なのか(28節「女奴隷の子ども」)を明らかにしています。

 ガラテヤ教会を動揺させていた偽教師たちは、自分たちこそはアブラハムの子であり、神の民であるとの自負を持っていたことでしょう。パウロは、彼らが尊敬する「アブラハム」については何度も言及して来ましたが、彼から生まれる息子やその母について言及するのはここのみです。

 22節の「二人の息子」とは、「イシュマエル」と「イサク」(28節)です。彼らの母とは、一人はアブラハムの正妻「サラ」のことで、彼女は繰り返し「自由の女」と呼ばれています。もう一人はサラの女奴隷「ハガル」(24,25節)で、彼女の方は繰り返し「女奴隷」と呼ばれています。

 イシュマエルとイサクの違いは、母親が違うだけではなく、その誕生の仕方にも違いがあります。イシュマエルは「肉によって」(23節)とあります。アブラハムとサラが神の約束を自分たちの行動によって実現しようとしたことを指しています(創世記16:2-)。一方、イサクについては「約束によって」とあります。神の約束によって(創世記17:16,18:10,21:1)、人間的には子どもを望む事ができない年齢において(参 ローマ4:19,20)、神の超自然的な介入によって生まれたことを指しています。

 パウロは24-27節で比喩を用いて説明しています。そこでは二人の母親は「二つの契約を表してい」るとし、「奴隷となる子」を産んだハガルをシナイ契約(古い契約 出エジプト24:5-8)にたとえています。パウロは「二つの契約」と言いながらも、もう一つの契約については言及していませんが、「新しい契約」(エレミヤ31:31,Ⅱコリント3:6)をサラ(自由の女)にたとえていることが推測されます。

 パウロはハガルを「今のエルサレム」に当てはめ、「今のエルサレム」が女奴隷の子であるイシュマエルが奴隷であるように、奴隷状態であることを示しています。これは神に受け入れられるためには律法を守ることが必要と考えている人々のことを指しているのでしょう。

 パウロは、ハガルを「今のエルサレム」に、サラを「上にあるエルサレム」(26節)に当てはめて対比させ、不妊の女であったサラがやがては多くの民の母となったことを、イザヤ書54章1節を引用して裏付けています。

 パウロは律法を守ることによって神に受け入れられようとする者は、律法を完全に守ることができないので、イシュマエルが奴隷の子どもであったように奴隷状態であることを指摘し、その一方、信仰によって受け入れられようとする者は奴隷のくびきから解放されて、サラの子イサクが自由であるように自由であることを指摘しています。

 ガラテヤ教会を動揺させていた偽教師たちは、自分たちはアブラハムとサラの子孫であると考えたことでしょう。パウロはそれを否定して、彼らをアブラハムとハガルから生まれた奴隷の子どもにたとえることによって、彼らが奴隷のくびきの中にあることを示そうとしたのです。自分たちの父(祖)はアブラハムであると主張するだけでは不十分です。誰を母とする子どもなのか。サラを母とする自由の子なのか、ハガルを母とする奴隷の子なのか、なのです。奴隷の子ども(肉によって生まれた者)は、アブラハムの祝福を相続することができないからです(30節、参 創世記25:5)。


       このメッセージは2023.1.8のものです。