幸いな人とは 詩篇1篇

 私たちは様々な関係性の中で生きていますが、その中で最も重要なのは神様との関係です。なぜなら、神様との関係はその他の関係(夫婦、親子など)を正しく位置づけ、その土台となるものだからです。聖書は神様との関係を離れては幸いがないことを私たちに訴えています。年頭にあたって、詩編1篇から「幸いな人」とはどのような人かを見ていきましょう。

 1節には「幸いなことよ」(アシュレー)という言葉があります(詩篇に26回出てくる)。主が語られた山上の説教の「~は幸いです」とのことばを連想させます(マタイ5:3-12)。3節には「その人は」とあり、どういう人が幸いなのかを、1、2節で説明しています。

 まず、幸いな人とは神を恐れない者たちとともに歩まない人です。1節の「悪しき者」、「罪人」、「嘲る者」とは、神を恐れない者たちのことです。「歩む」「立つ」「座に着く」という表現を、ある人は悪に引き込まれていく状態を具体的に順序立てていると説明しています。どのような人と親しい関係を築くかによって、その人の人生は大きく左右されるでしょう。「悪い交際は良い習慣を損なう」(Ⅰコリ15:33)とあるとおりです(参 Ⅰテモテ3:12)。

 次に、幸いな人とは神のことばを愛し、それをいつも心に留める人です(参 詩編119:97)。2節の「おしえ」(トーラー)とは「律法」と訳されることばですが、ここでは広く「神のことば」という意味でしょう。神のことばを「喜び」とする姿には、神のことばを慕い求める思いがあります。「口ずさむ」(ハーガ-)と訳されている動詞は、基本的には「つぶやく」という意味です(第三版)。欄外注には「思い巡らす」の意味があることが示されています。古い時代においては、人々は自分の聖書を持っていませんでした。ですから、神のことばを一生懸命何度も口ずさみ、そのことばを暗唱し、自分のものとしたことでしょう。この情報過多の時代、何によって心を満たすかはとても重要です。神のことばを思い巡らすのは、神のことばを理解し、生活の中に適用するためにほかなりません(参 ヨシュア1:8)。

 3節には、幸いな人が「流れのほとりに植えられた木」にたとえられています。「流れのほとり」とは、潅漑用の水路のことでしょうか(参 イザヤ30:25)。豊かな水源のそばに植えられた木のイメージは他の箇所にも出てきます(エレミヤ17:8)。「時が来ると」という言葉には、結実までの時間の経過が示されていて、成長は時間を要する過程であることが分かります。あなたにとって今は結実のための成長の過程であり、忍耐の時なのかもしれません。「その葉が枯れない」のは、根がしっかりと水源に伸ばされているからです。日照りという試練にも耐えることができるのです。「そのなすことはすべて栄える」という表現は、神がともにおられたヨセフの人生に見ることができるのではないでしょうか(創世記39:2-3,23)。

 最後に幸いな人とは、私たちの人生を「知っておられる」神に信頼する人です(6節)。「知る」という動詞は、夫婦の性的な関係にも用いられ(創世記4:1)、単に情報として知るというだけではなく、心に留めるという意味もあります。厳しい試練の時、神は私の人生に無関心で見放しておられるように感じられる時があるかもしれません。しかし、そうではありません、あなたを見放さず、見捨てないと約束されたお方は(申命31:6)、私たちの人生に深い関心と配慮をもって私たちを導こうとされているお方なのです。その方に信頼する者は幸いなのです。


                このメッセージは2023.1.1のものです。