奴隷から養子へ ガラテヤ4章1-11節

 パウロは、律法の下にある人の状態(1-3節)とキリストのもとにある人との状態(4-7節)、つまり「奴隷」と「養子」(神の子)を対比させ、8,9節では「かつて」と「今」のガラテヤのキリスト者たちの状態(「神を知らなかった」と「神を知っている」)を対比させています。そして、どうしてかつての奴隷状態に逆戻りしたいとのかと訴え、自分の働きが無駄になるのではないかと心配していることを率直に伝えています。

 パウロは律法の下にある人の状態を、3章では「牢獄」や「養育係」のイメージを用いて説明しましたが、ここでは「子ども」(1,3節 ネーピオス 共同訳「未成年」)の相続人にたとえて説明しています。未成年の相続人は、名義上は所有者であっても「父の定めた日までは、後見人や管理の下にあって」、その相続したものを自由にできないことを指摘し、奴隷と変わらないとしています。

 4節以降には父なる神による二つ(「御子」と「御霊」)の派遣(4,6節「遣わされました」)が述べられています。4節はクリスマスについての言及です。「時が満ちて」とは、クリスマスの出来事が、父なる神のご計画によるものであることを示しています。「女から生まれた者」とは「受肉」を指し、遣わされたお方が人間となられたことを意味しています(参 ヨハネ1:14)。「律法の下にある者」とは、おそらく律法の下に生きるユダヤ民族として誕生されたということでしょう。

 クリスマスの目的は何だったのでしょうか。その一つは「律法の下にある者を贖い出すため」です。もう一つは「子としての身分を受けるため」です。「贖い出す」(代価を払って買い戻すという意味)ということばは、3章13節にも出てきました。そこでは「律法ののろいから」とあり、ここでは「律法の下にある者を」とあります。律法の下にあって奴隷となっていた者を自由にするために、御子は自ら律法の要求に完全に従われただけではなく、律法の要求を満たすことができない私たちのためにご自身を代価としてささげてくださったのです。

 クリスマスの意味は解放だけではなく、自由となったものをご自身の養子とするためであったことがわかります。「子としての身分」(フィオセシア パウロのみが五回用いている言葉。参 エペソ1:5,ローマ8:15,23,9:4)とは、養子縁組を意味し、養子となった人に与えられる法的特権を強調するものです。キリストを信じて神の子どもとされた者たちは、父の愛や配慮と相続が期待できる者とされているということなのです。

 パウロは、「御霊」の派遣について、「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました」と述べています(6節)。「アバ」とはアラム語で、小さな子どもが親しみを込めて父親を呼ぶときの言葉です(参 マルコ14:36)。奴隷が決して呼ぶことができないことばを、神は養子としてくださった私たちに、御霊によって神の子どもとしての確信を与えて呼ぶことができるようにしてくださっているのです(参 ローマ8:15,16)。

 キリスト者は、自分を何者だと考えるべきでしょうか。愛される価値のない、見捨てられた孤児のように考えるべきではありません。神によって愛されている子どもとしての自己理解が重要です。実の父親から愛された経験が少ない子どもたちが増えているかもしれません。しかし、天の父は主が「放蕩息子」のたとえで語られた父のような愛のお方なのです。


               このメッセージは2022.12.4のものです。