パウロとガラテヤの信徒たち ガラテヤ4章12-20節

 パウロは、13-16節においては、自分に対するガラテヤの信徒たちの態度について、また17-20節においては、逆にガラテヤの信徒たちに対する自分の態度について述べています。

 パウロのガラテヤ地方への宣教は当初から計画したものではなかったようです。13節の「弱さ」(直訳)と訳されている言葉は、「病気」(Ⅰテモテ5:23)と訳されることばです。では、どのような病気だったのでしょうか。いろいろな推測がなされていますが、特定することは困難です。しかし、14節の「私の肉体には、あなたがたに試練となるものがあった」という言葉から、彼の外見は不快で見苦しいものであったことが分かります。

 パウロは、二つの動詞(「軽蔑する」と「嫌悪する」)を用いて、拒絶するように誘惑されても不思議ではない外見であったにもかかわらず、彼らが自分を「神の御使い」や「キリスト・イエス」であるかのように歓迎してくれた過去のことを彼らに思い起こさせています。

 パウロとガラテヤの信徒たちとの親密な関係は、「あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出して私に与えようとした」(15節)という言葉にも見ることができます。

 15節の「それなのに」ということばや、16節の「あなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか」とのことばは、以前の良好な関係が変化してしまったことと、その理由を説明するものです。

 パウロは、17,18節で「熱心に求める」(ゼーロオー)と訳すことができる動詞を三回用いています。ガラテヤの信徒たちを惑わしていた偽教師たちがガラテヤの信徒たちを熱心に求めている動機が、「善意」からではないこと、つまり利己的であることを指摘し、自分から引き離して、ガラテヤの信徒たちが彼らを熱心に求めるようにしているとしています。そして、正しい動機からなら、熱心に求められることはいつでも良いことです、と述べています。

 パウロは偽教師たちとは対照的に、自分がガラテヤの信徒たちを求めるのは、正しい動機からであることを母親のイメージを用いて説明しています(参 Ⅰテサロニケ2:7-8)。パウロは先に福音を伝えた際に霊的な産みの苦しみを経験していました。そして「再び」、その彼らのうちにキリストが形造られるために産みの苦しみをしようとしているのです。

 パウロとガラテヤの信徒たちの関係から、今日の牧会者と信徒たちとの関係についてどのような適用を見出すことできるでしょうか。まず信徒たちに対しては、牧会者の外見(若すぎる、高齢過ぎる、かっこ良くないなど)によって、また自分の気に入らないメッセージをする(短すぎる、長すぎる、難しすぎる、浅すぎるなど)からといって牧会者を拒絶してはならないということではないでしょうか。神のことばが開かれ、そこから正しく神のことばが語られるなら、その牧会者の背後におられるキリストの権威を謙遜に認めるべきなのです(参 エペソ4:11)。

 一方、牧会者に対しては、信徒たちに気に入られようとするのではなく(自分のお気に入りを育てようとするのではなく)、信徒たちをキリストにしっかり結びつけ(Ⅰコリント3:4)、彼らがキリストに似た者となるように仕えていくという目標を見失わないということではないでしょうか。

 牧会者と信徒たちが、その関係を健全に築き保つためには、お互いがしっかりと「キリスト」(14,19節)に目を向けることが不可欠です。


            このメッセージは2022.12.11のものです。