約束と律法 ガラテヤ3章15-29節

 パウロは神の救いのご計画において重要な三人に焦点を当てています。その一人はアブラハムで、神から直接「約束」をいただいた人物です。もう一人はモーセです。「律法」の「仲介者」(19節)となった人物とはモーセのことです。三人目は、十字架において救いの御業を成し遂げてくださったお方である「キリスト」です。

 まずパウロは、日常生活から「契約」(15,17節 ディアケーセは「遺言」とも訳せることば)を例にして、それは後から人が勝手に取り消したり、変更したりできない性質のものであることを指摘しています。15節の「契約」は「遺言」と訳した方がより理解しやすいかもしれません。

 「相続」(18節)を規定する「遺言」が勝手に変更できないものであるなら、神の「約束」(16節、15節の「遺言」と同義語)も同様であるとしています。そして、神がアブラハムにした「あなたの子孫」によってすべての民族が祝福されるという「約束」の、「あなたの子孫」とは、イスラエル民族ではなく「キリスト」のことであり、神がキリストを信じる者たちに約束された相続(祝福の内容)とは、義認であることを明らかにしています(24節)。

 パウロは「契約」(約束)が、何世紀も後から授けられた「律法」によって「破棄されたり」「無効」にされたりすることがないことを強調し(17節)、もし約束の祝福を得る(相続)ために律法を守ることが必要であるなら、神の約束は恵みではなくなり(参 ローマ4:4-5)、神の約束が破棄されたことになってしまうと指摘しています。

 パウロは「約束」と「律法」が対立するかのように語ってきましたが、その一方を受け入れて、他方を退けてしまわないように、「律法」が神の救いのご計画において果たした役割を約束との関係で説明しています。

 「律法」は神が与えられた「正しく、また良いもの」です(ローマ8:12)。しかし、律法の役割は、残念ながら人に「いのち」(義認と同義­=救い)を与えるために与えられたのではありませんでした。律法の役割は、「違反を示すため」に与えられたのであり、律法は私たちが律法を守れない罪人であるとの認識に導き(参 ローマ3:20,4:15,7:7)、律法を守ることによっては義と認められないことを認めさせ、「約束」を信仰によって受け取ることができるように道を備えるために与えられたものなのです。

 パウロは、罪の下にある人々の姿を二つのイメージによって説明しています。一つは牢獄です(23節)。律法は人を厳しい監視のもとにおき、そこに閉じ込めてしまいます。そこから誰も逃げることはできません。もう一つは「養育係」(パイダゴーゴス)です(24節)。養育係は、通常は奴隷であり、裕福な家庭の子どもの学校の送り迎えなどの世話やしつけを担当しました。パウロはコリント人への手紙で、彼らを救いに導いた自分を愛情深い「父親」にたとえ、むちをもってきびしくしつける「養育係」と対比させています(参 Ⅰコリント4:15,21)。牢獄の中に閉じ込められることも、養育係のもとにあることも幸いな状態ではありません。しかし、そのような悲惨な状態も「約束を受けたこの子孫(キリスト)が来られるときまで」(19節)であり、「信仰が現れる前」(23節)までのことです。

 律法は人に義を与えることはできませんでしたが、神がアブラハムに約束された祝福(義認)を信仰によって得ることができるために備えられたのです。ですから、「律法は神の約束に反する」ものではないのです(21節)。

 [25節の「しかし」以降のキリストのもとにある人々の姿については説教集を見てください。]


      このメッセージは2022.11.30のものです。