行いか、それとも信仰か ガラテヤ3章1-14節

 パウロはガラテヤ人たちに、「十字架につけられたイエス・キリスト」(1節 参 Ⅰコリント1:23)を信じることによって救われるという福音を語りました。しかし、それを信じたはずの彼らは「動揺させる」者(1:7)たちによって惑わされて、パウロが伝えた正しい福音から離れて行こうとしていました。それでパウロは彼らに対して「愚かな」(1節、3節)という厳しい言葉を用いなければなりませんでした。

 パウロは彼らの霊的な目を開かせるために、彼らの信仰体験に基づいて問いかけを繰り返しています(1,2,3,4,5節)。2節では「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか、それとも信仰をもって聞いたからですか」と問いかけています。パウロは「御霊を受けたか、否か」を尋ねてはいません。すでに「御霊を受けた」ということを前提に尋ねています。信仰をもって聞いた者のうちに聖霊が内住されることは当然のことだからです(参 ローマ8:9-10)。

 パウロが彼らに期待しているのは「信仰をもって聞いた」という答えです。5節でも「御霊を与え」られた神の視点から同じことを問いかけています。そこでも「信仰をもって聞いた」という答えを期待しています。

 ペテロが異邦人の百人隊長コルネリウスのところに行って食事をしたことを非難したエルサレムのユダヤ人たちは、コルネリウスたちが福音を信じて聖霊を受けたことを聞いたとき、異邦人たちも自分たちと同じように信仰によって救われることを理解しました(使徒11:2-18)。聖霊を受けたのが「信仰による」なら、救いの条件に律法の行いをも含めることは誤っていることを意味します。

 パウロは5節以降においては、旧約聖書に基づいて義認が信仰によるということを論じています。ユダヤ人たちが尊敬していたアブラハムを例にして、彼が「義と認められた」のは、割礼を受ける前であり(創世17章)、信仰によってであることを示しています(創世15:6)。そして、アブラハムのように信仰によって生きる人々が「アブラハムの子」であり、神がアブラハムに約束された祝福をともに受けるのだとしています。そして、その約束された祝福とは「義と認められる」こと(10節)や「御霊を受ける」ことを意味していると明らかにしています(14節)。

 人は、なぜ「律法の行い」によって祝福にあずかることができないのでしょうか。それは律法が要求する完全な従順を誰も行うことができないからです(罪の普遍性について:ローマ3:9,10、Ⅰ列王8:46,箴言20:9,伝道者7:20)。パウロは律法をすべて守れない者がのろいのもとにあることを説明し(参 申命記27:26)、「信仰によって生きる」(ハバクク2:4)ことと律法の「掟によって生きる」(レビ18:5)ことが両立しないことを指摘しています。

 すべての人がのろいのもとにあるなら希望はないのでしょうか。パウロは、「キリスト」が十字架で死なれた意味が「私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださ」っことを明らかにすることによって祝福の道が備えられていることを説明しています。

 

 私たちには二つの道が示されています。一つは「律法の行い」による道です。それはのろいに至ります。一方、「信仰による」道があります。それは祝福(御霊を受ける、義認)に至ります。信仰によって祝福を受けたはずの者たちが、改めて律法の行いによってそれを求めようとすることは愚かでなくて何でしょうか。

     
           このメッセージは2022.11.20のものです。