救いの喜びを忘れない エステル9,10章

 ユダヤ人は、自分たちとその子孫、および自分たちにつく者たちが、・・・この両日を守り行い、これを廃止してはならないと定めた(エステル記9章27節)。

 ハマンが王の名で発布した法令と、それに対抗するためにモルデカイが王の名によって発布した法令の実施日、すなわちアダルの月の十三日がやってきました(9:1)。1節の「ユダヤ人の敵がユダヤ人を征服しようと望んでいたまさにその日、逆に、ユダヤ人のほうが自分たちを憎む者たちを征服することとなった」は、実施日の結果を要約するものであり、その詳細については2-16節に記されています。

 すでにユダヤ人の敵の首謀者であるハマンは失脚していなくなり、かつて彼が君臨していた権力の座にはユダヤ人モルデカイが就き、スサの都をはじめ諸州においても、モルデカイを恐れる人々はユダヤ人たちを支援しました。しかし、そのようなユダヤ人優位の中にあっても、根強くユダヤ人たちを憎む者たちがいたことがわかります。戦いにおいて、都スサにおいては「五百人とハマンの息子十人が殺」され(延長された法令によって三百人が追加された)、スサ以外の諸州では、ユダヤ人たちを憎む者「七万五千人」(9:16)が殺されたのでした。

 ユダヤ人たちの行動が、残忍な復讐であったのか、それとも自衛であったのか、読む人によって分かれるでしょう。生存がかかった戦いであったので、自制心を失って残忍な振る舞いをした人がいたかもしれませんが、「略奪品には手を出さなかった」と繰り返し強調されていることや(9:10,15,16)、ユダヤ人たちは「団結して(15節の「集まって」と同語)、自分たちのいのちを守り、敵からの安息を得た」とのことばから、その戦いは抑制がきいたものではなかったかと思われます。

 17-19節には、共通の救いを体験したユダヤ人たちの間に、「祝宴と喜びの日」が生まれたことが記されています。スサとそれ以外の地方では、その日にばらつきがありましたが、20節以降には、自然発生的に生まれた「祝宴と喜びの日」を祝うために、「アダルの月の十四日と十五日」(21節)の「両日」(27,28節)が「プリムの日」として制定されました。それは「記憶が自分たちの子孫の中で途絶えないよう」(28節)にするためです。

 ユダヤ人たちは、今も「プリムの日(祭)」を祝っています。それは救いを記念し、その記憶を次の世代へと継承するためです。多くのユダヤ人たちが強制収容所に収容され虐殺された時代において、ナチスはプリムの祭の起源を記している「エステル記」を読むことを禁じました。しかし、ユダヤ人たちは記憶によってそれを書き留め、プリムの祭には密かにそれを読んだとのことです。

 私たちクリスチャンはユダヤ人たちのように過越の祭もプリムの祭も祝いません。しかし、自分の救いの喜びを忘れないために、その救いを記念して祝うことはふさわしいことではないでしょうか。罪によって滅びに定められていた者が(参 ローマ6:23)、父なる神が遣わされた御子の犠牲によって、罪赦され永遠のいのちにあずかっているのです。信仰を告白した日やバプテスマを受けた日でもいいでしょう。また、礼拝に集う毎に、その日を喜びの日として意識するのもいいのではないでしょうか。暗い話題が多い時代にあって、本当の喜びは神がキリストを通してくださった救いにあることを忘れないようにしましょう      


 このメッセージは2021.10.10のものです。なお、「エステル記」のメッセージ(計8回)のさらに詳しい要約は、長野聖書バプテスト教会説教集『見えない神の御手によって』(B5 26頁)にまとめられています。