敵の失脚と新しい法令 エステル 7,8章
こうしてハマンは、モルデカイのために準備しておいた柱にかけられた。それで王の憤りは収まった(エステル記7章10節)。
7章の終わりには、ユダヤ人の根絶やしとモルデカイの処刑を企んだハマンが悲惨な最後を遂げたことが記されています。8章には、王の前にひれ伏し、涙ながらに同胞の救いのためにとりなすエステルの姿が記されています(8:3-)。私たちはハマンやエステルからどのような警告や模範を見いだすことができるでしょうか。
一つは高慢の危険性です。箴言16章18節には、「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ」とあります。ハマンが屈辱的な死を遂げなければならなかったのは高慢だったからと言っていいでしょう。高慢は他の罪に比べて自覚しにくいと言えるかもしれません。高慢とは、自分を実際よりも高く考えることです。経済的な豊かさや社会的な地位を手にするようになると、何か自分が他の人より優れているかのように思ってしまいます。5章12節にはハマンの富や地位を誇ることばがあります。
富や地位そのものが悪であるわけではありませんが、それらは人を高慢にしやすくしてしまいます。そして、高慢は自分よりも貧しい人々や地位や学齢のない人たちを見下し、敬意をもって接することを困難にしてしまいます。
ハマンは王の信頼を得て、「王の指輪」(王の代理の権限)をあずかるような地位を得ています(3:10、8:2)。そして自分は、他の人たちから敬意を受けることは同然だと考えています。ですからモルデカイの態度を軽く受け流すことはできませんでした。それはモルデカイの民族を根絶やしにし、ついにはモルデカイを屈辱的な死に至らしめようとする企てへと発展していったのです。
聖書は神が高慢を忌み嫌い、高ぶる者に敵対すると警告しています(箴言6:16-17、16:5、Ⅰペテロ5:5)。高慢にならないためには、自分が今所有していると思っているものを、神の恵みによって与えられて委ねられていると受け止め、神と共に歩む必要があります(参 Ⅰコリント4:7)。
もう一つは、とりなし(愛)の重要性です。7章の最後には、ユダヤ人を根絶やしにしようと企んだ首謀者(ハマン)を処刑したとき、「王の憤りは収まった」とあります。しかし、ハマンが王の名で発布した法令は依然と生きていました。4章にはエステルの死を覚悟してのとりなしの決意があり、5章と7章のエステルが設けた宴会には、祈りのうちに導かれた彼女のとりなしの過程がありました。そして、8章3節以降には、彼女の最後のとりなしがあります。
エステルは王宮にいて身の安全は保証されています。しかし、彼女の「どうして、私の同族が滅びるのを見て我慢していられるでしょう」(8:6)との、とりなしの言葉から、同胞が滅びの危機の中にあるのに黙っていられないとの同胞に対する愛を読みとることができます。
Ⅰテモテ2章4節には「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」とあります。また、主イエスが語られたたとえ話の結びには、「一人の罪人が悔い改めるなら、・・・大きな喜びがあるのです」(ルカ15:7,10)とあります。忍耐強く、だれかの為にとりなしを続けることは簡単なことではありません。証ししようとしているのに、かえって状況を悪化させてしまうこともあるでしょう。しかし、神が望んでおられることと神の喜ばれることを覚えつつ、落胆しないで愛する同胞が滅びから救われるようにとりなしを続けていきましょう。
このメッセージは2021.10.3のものです。