民族存亡の危機 エステル記3章1-15節

 

 3章の最後は、スサの都の人々の混乱をよそに「王とハマンは酒を酌み交わしていた」という言葉で終わっています。王はともかくとして、ハマンは「モルデカイの民族」(6節)であるユダヤ人を根絶やしにする法令の発布成功に、祝杯をあげていたのです。エステルが王妃になってから五年弱が経過した時のことです(7節 王の治世の十二年の第一の月)。

 さて、この3章からどのようなことを見出すことができるでしょうか。

 まず、人間の堕落、ことに制御されない怒りのおそろしさを見るということです。1章では王の「憤り」についての言及があり、この3章では権力者ハマンの「憤り」についての言及があります(5:14にも)。怒りに支配された敵意は、モルデカイ一人にではなく、モルデカイの民族にまで向かっています。利己的な権力者の制御されない怒りが恐ろしい破壊(ジェノサイド)をもたらそうとしているのです。

 怒りは、神さまが私たちに与えて下さったさまざまな感情の一つです。ですから、怒りそのものが罪深いわけではありません。正しい怒りというものが存在します。しかし、私たちが経験する多くの怒りは、自分の思いのままにならない利己的な怒りという面があるのではないでしょうか。「アンガー(怒り)マネージメント」という言葉を聞くようになりました。現在では企業研修にも取り入れられています。怒りを上手にコントロールすることは人生の必須科目と言えるでしょう。正当な怒りであれ、利己的な怒りであれ、それを正しく処理しなければ大きな破壊をもたらすことになります。人は怒りに満たされるとき必要以上に攻撃的になるからです。

 怒りを正しく処理するためには、まず怒りを認める必要があります(怒りの感情を押し殺して、それを否定することは心の健康にとって有害です)。なぜなら認識しないものを正しく処理することはできないからです。次に怒りの原因を判断する必要があります。正当な怒りなのか、利己的な怒りなのか。利己的な怒りであるならば神の前に悔い改める必要があるでしょう。相手に原因があり正当な怒りであるなら、冷静に相手と対話する必要があります。その際、責め立てる姿勢にならないことが重要です。責めようとするなら相手の必要以上の抵抗や反発を招くことになるからです。自分がなぜ怒っているのかを相手が正しく理解できるように導けるなら、解決の糸口を見出すことができるでしょう。しかし、事は相手のあることなので、うまくいかないことも多いかもしれません。最終的には、神の御手に委ねるしかないかもしれません。すべてを公正に取り扱うことができるのは神だからです。

 制御されない怒りによってどれだけ私たちの大切な関係が破壊されてきたことでしょう(参 エペソ4:26,27)。怒りだけではなく、私たちが抱える堕落の現実は、私たちが救いを必要としていることを教えています。そして、神はキリストをとおしてご自身に立ち返る道を備え、私たちのうちに御霊を通してその実を結ぼうとしてくださっているのです。

<以下のポイントはスペースの関係で掲載を省略します。編集予定の説教『見えない神の御手の中で』をご覧ください>

 次に、聖書はだれに敬意を表わすように求めているか、ということを考えさせられるということです。

 最後は、神の民はどこにあってもその独自性を失わないということです。


               このメッセージは2021.9.12のものです。