パウロの最期を取り巻く人々 Ⅱテモテ4章9-22節

 私の最初の弁明の際、だれも私を支持してくれず、みな私を見捨ててしまいました。・・・しかし、主は私とともに立ち、私に力を与えてくださいました(Ⅱテモテ4章16,17節)。

 パウロの絶筆となったこの手紙も最後の箇所に来ました。パウロが置かれていた状況や願い、また彼を取り巻く人々との関係性というものが読みとれます。ここからどのようなことを見出すことができるでしょうか。

 第一は、私たちはよい信仰の友(同労者)を必要としているということです。パウロは死が迫る中で、最も信頼する愛弟子テモテに「何とかして」ということばを繰り返して、「早く」、「冬になる前に」「来てください」と訴えています(9,21節、参 1:4)。果たしてパウロの会いたいという願いがかなえられたのかはわかりませんが、だれでも死を前にして望むことは愛する人にそばにいてほしいということではないでしょうか。

 パウロは、テモテが来る際は「マルコを伴って」来てくださいと依頼しています。第一回伝道旅行の途中で帰ってしまい、パウロの信頼を失ってしまった彼ですが(使徒13:13、15:37-)、「私の務めのために役に立つ」との評価を得るまでに信頼を回復していることが分かります。

 同労者で、投獄されている自分のそばにいるのは医者の「ルカ」だけでした。そして、パウロが心を痛めていたと思われるのは、「今の世を愛し」、「見捨ててテサロニケに行ってしま」った「デマス」のことでした。パウロを見捨てた理由は説明されていません。迫害を恐れてパウロとの距離をとってしまったのでしょうか。「ルカ」とともに「同労者」のリストに登場する彼ですが(ピレモン24)、パウロの信頼を裏切った者として最後に登場するのは残念なことです。14節には、真理に逆らい、パウロに敵意をもっていた「アレクサンドロ」が出て来ます。敵意をもつ者から苦しめられることも辛いことですが、時には信頼する者から裏切られることの方がより辛いということがあるのではないでしょうか。

 パウロには、この手紙には名前が出てこない同労者たちもいました。その人々との距離感はいつも一定ではなかったかもしれませんが、彼の三十年に及ぶ働きは同労者たちとの協力や交わりによって支えられたものであったと言っていいでしょう。私たちは、死の間際だけでなく、普段においてもだれかの助けや励ましを必要とし、一方で他の人たちは私たちの助けや励ましを必要としています。孤立した状態で霊的に健康な信仰生活を送ることはできません。パウロが勧めているように私たちは、「お互いの霊的成長に役立つことを追い求め」(ローマ14:19)ていく必要があるのです。

 第二は、私たちを真に支えるのは主ご自身だということです。パウロは公判を控えて予備審問を受けました。しかし、彼の側に立って弁護したり、証人となってくれる者はなかったようです。「みな私を見捨ててしまいました」(16節)との彼の言葉から、彼はとても孤独だったに違いありません。パウロは「しかし、主は」と自分を決して見捨てることのない方が、「ともに立ち」「力を与えてくださ」ったことを述べています。 主は見捨てられるということがどのような事であるかを知っていました。ゲツセマネの園において、友の祈りを必要としていたとき彼らは眠っていました。死ぬ覚悟を述べていた彼らはみな見捨てて逃げてしまいました(マルコ14:50)。あの十字架において父に「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫ばれた方は、私たちの孤独をもよく理解してくださるお方です(参 ヘブル2:18,4:15)。そして、その方は私たちを見捨てないと約束してくださっているのです(ヨハネ14:18,ヘブル3:5)。主は孤独の中で、私たちをご自身に近づけ、本当に頼るべき方がどなたであるのかを示してくださるのです。

 このメッセージは2021.8.15のものです。なお、「テモテへの手紙第二」のメッセージ(計10回)のさらに詳しい要約は、長野聖書バプテスト教会説教集『みことばを宣べ伝えなさい』(B5版、22頁)にまとめられています。