困難な時代を敬虔に生きる Ⅱテモテ3章10-17節

 「敬虔」ということばは、牧会書簡の中で重要なことばの一つです。なぜなら、それはクリスチャンたちが追い求めるべきものだからです(Ⅰテモテ6:11)。パウロは先に困難な時代の特徴を十九ものリストをあげて説明していました。それらは健全な教会のあり方や成長を阻害するものにほかなりません。その困難な時代を敬虔に生きるために大切なことは何でしょうか。

 一つ目は、不敬虔へと導こうとする人々を避けるということです(5節)。偽教師たちや偽教師たちの影響を受けた人々をも愛すべきですが(参 2:25,26)、頑なに真理に逆らおうとする人々から離れることは賢明なことです(参 Ⅰコリント5:11、15:33)。

 二つ目は、良い模範に倣うということです。10節から17節の段落で特徴的な文章構成は、10節と14節の文頭に同じ言葉(「しかしあなたは」と「けれどもあなたは」と訳されている)が使われていて、前の節の偽教師とは対照的なあり方がテモテに示されているということです。

 パウロは、テモテが自分の良い模範に倣ってきたことを思い起こさせていますが(参 Ⅰコリント4:17)、その最初にあげているのは「教え」です。教えが最初に来るのは、にせ教師の誤った教えとの対比を考えているからであり、また、クリスチャンたちを敬虔へと導くのは健全な教えだからです。次の「生き方」は、日常生活の行動を表わす語です。それは誤った教えから生まれてこないものです。次の「計画」は、パウロの人生の主目標と言い換えたらいいでしょう(参 使徒20:24)。その後の「信仰」から「忍耐」はクリスチャンの徳と言われるものです。それらはテモテがパウロと共に生活する中で実際に見てきたものです。

 パウロはテモテだけではなく、他の人々にも自分を模範として倣うように命じていますが、(Ⅰコリント4:16,ピリピ3:17)それは彼がキリストに倣う者であったからです(Ⅰコリント11:1)。

 パウロは第一回伝道旅行で体験した「迫害や苦難」にも触れていますが(使徒13,14章)、その出来事は正確にはテモテがパウロの宣教チームに加わる前の出来事です。ですから、「よくついて来てくれました」と訳されていることばは、迫害や苦難の中でパウロがどのように耐えてきたかを聞き知っていることに言及したものでしょう(共同訳「迫害や苦難をもいといませんでした」)。   

 パウロは、迫害や苦難の中でどのように自分が耐えて、また主がどのように助け出してくださったかをテモテに思い出させて、「敬虔に生きようと願う者」に避けられない迫害に備えさせ、励ましているのです。

 三つ目は、神のことばである「聖書」にとどまるということです。パウロは「学んで確信したところにとどまっていなさい」(14節)と命じて、その理由を二つあげています。一つは「だれから学んだかを知って」いるからです。「だれ」とは複数形なので、パウロはもちろんのこと、祖母や母を指しているのでしょう。もう一つの理由は、聖書はテモテが自分の務めを果たすことができるように十分に整えることができるものだからです。

 誤った教えに振り回されないで(参 エペソ4:14)、敬虔に生きるためには、いつの時代においてもしっかりと神のことばである「聖書」にとどまらなければならないのです。

                      このメッセージは202.8.1のものです。