恥じる人と恥じない人 Ⅱテモテ1章13-18節

 

 パウロのこれまでのテモテへの勧告は、一つ目は福音を恥じてはいけないということ、二つ目は福音のために苦しみをともにしてください、ということでした。そして、三つ目は「私から聞いた健全なことばを手本にしなさい」ということです(13、14節の並行する二つの命令は同じような内容)。「健全なことば」(Ⅰテモテ6:3)や「健全な教え」(Ⅰテモテ1:10,Ⅱテモテ4:3,テトス1:9,2:1)は牧会書簡に用いられているキーワードの一つです。健全な信仰や教会形成にそれらは不可欠なものです。「手本としなさい」とは、基準となる健全なことばから逸脱してはいけない、それを堅持しなさいということでしょう。14節の「委ねられた良いもの」とは、「健全なことば」のことであり、福音をはじめとするキリスト教信仰の真理を指しています。それを「守りなさい」という命令はⅠテモテ6章20節にもありましたが、それを守るのは人間の力でできるものではありません。「聖霊によって」とあるように、聖霊の助けが必要です。

 パウロは、テモテへの勧告のあと、その勧告に従わなかった者たちと従った者について述べています。私たちはその詳細を知りませんが、その人たちのことはテモテも良く知っていることでした(15節「あなたの知っているとおり」18節「あなた自身が一番よく知っています」)。パウロから「離れて行」ったアジアの人々、特にその中の二人「フィゲロとヘルモゲネ」が名指しされています。リーダー格だったのでしょう。彼らがどのような理由からパウロから離れて行ったのかは記されていませんが、たぶん、パウロがローマの囚人となったことから、パウロとの親しい関係を保つことは不利益を被ることになると考えたのではないでしょうか。とするなら、彼らはパウロが主の囚人であることを恥じた人たちといえるでしょう。

 多くの人たちが去って行く中にあって、パウロの慰めとなった人がいました。その名は「オネシポロ」です。パウロは彼について「たびたび私を元気づけ、私が鎖につながれていることを恥と思わず、ローマに着いたとき、熱心に私を捜して見つけ出してくれました」と述べています。「たびたび」と「熱心に」という言葉から、労苦を厭わずに神のしもべに仕えようとする姿勢を見る思いがします。パウロは、16節ではオネシポロの家族(4:19)に現在のあわれみを、18節ではオネシポロに将来のあわれみを、それぞれ祈っています。

 オネシポロは囚人となっているパウロとの親しい交わりを恥じないばかりか、パウロと苦しみをともにすることを厭いませんでした。ヘブル人への手紙13章3節に「牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい」とありますが、オネシポロは思いやりのある人だったのです。

 主イエスは再臨において、信仰者と未信者を右と左に分けることについて語る中で(マタイ25:31-)、右にいる「祝福された人たち」に、わたしの兄弟の一人を「牢にいたときに訪ねてくれた」(25:36)のは、「わたしにしたのです」(25:40)と言われています。一方、左にいる「呪われた者たち」に、「牢にいたとき訪ねてくれなかった」(25:43)のは、「わたしにしなかったのだ」(25:45)と言っておられます。主は善行によって救いが決定すると言われているではありません。真の信仰が行いによって実証されるものとしておられるのです。オネシポロの愛の行為は、主に対するものでもあり、彼の真の信仰を実証するものであったのです(参 Ⅰヨハネ3:17,18)。


                    このメッセージは2021.6.27のものです。