恥じてはいけない、また恥じない理由 Ⅱテモテ1章8-12節

 ですからあなたは、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください(Ⅱテモテ1章8節)。

 私たちは日本にいて言論や信仰の自由をもっています。自分の考えや信仰を表明することによって大きな不利益を被ることは殆どありません。しかし、それにも関わらず、自分の信仰をしっかりと証しできない弱さを経験しているのではないでしょうか。それは自分の考えや意見をしっかりと言うことが苦手だからというよりも、人への恐れや自分がどのように思われるだろうか、ということに敏感だからではないでしょうか。

 パウロは、この手紙を書いたとき「主の囚人」として「福音のために・・・苦しみを」受けていました(8節)、しかし、彼はそのことを恥とは思っていませんでした(10節)。そして、愛弟子であるテモテにも「私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません」と命じています。「恥じる」ことと「福音のために苦しむ」こととが対比されているので、パウロが命じていることは、「福音を恥じてはいけません」、と言い換えてもいいでしょう。今回は、テモテに命じていることやパウロの告白から、恥じてはいけない、また恥じない理由についてみていきましょう。

 一つ目の理由は、私たちには「臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊が与えられている」からです。8節の「恥じてはいけません」という命令は、「ですから」という接続詞で7節とつながっています。主は昇天される前に弟子たちに聖霊を約束され、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受け・・・わたしの証人となります」(使徒1:8)と約束されました。神は私たちが自分の力で恐れを克服して主の証人となるように求めているのではありません。

 二つ目の理由は、福音を通してすばらしい救いにあずかっているからです。9,10節には、「福音」が説明されています。福音は神が人を救いへと導くために備えられた良い知らせです。神はその救いを「私たちの働き」(共同訳「行い」)によってではなく、ご自身の「恵み」によって備えられました。しかも、それをご自身のご計画に基づいて「永遠の昔」にキリストにおいて与えられたというのですから驚きです(参 エペソ1:4)。そして「今」、キリストはその来臨によって「死を滅ぼし」(共同訳「死を無力にし」)、「死の恐怖によって・・・つながれていた人々」(ヘブル2:15)を解放し、「いのちと不滅」を得ることができるようにしてくださったのです。「いのちと不滅」とは、「不滅のいのち」と解して、「永遠のいのち」と言い換えることができるでしょう。福音によって今、私たちにどのような恵みがもたらされているかが分かるなら、福音を恥じることはできないのではないでしょうか。

 三つ目の理由は、私たちが信じてきた方は信頼できるお方であるからです(12節)。パウロは自分が恥じない理由を12節の「なぜなら」以下に、「自分の信じてきた方をよく知っており、また、その方は私がお任せしたものを、かの日まで守ることがきると確信しているからです」と述べています。パウロは、たとえ苦しむことが避けられないとしても、尊い救いのことばを委ねてくださった方がどのような方であるかをよく知っているので恥じることはできないのです。それはパウロだけではなく、私たちにとってもそうではないでしょうか。

 主は「わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます」(マルコ8:38)と言われました。他の人にはたとえ愚かに見えたとしても(参 Ⅰコリント1:18,23)、福音によってもたらされた救いのすばらしさを覚えつつ、神が備えてくださっている力によって福音を恥じない歩みをしていきましょう。


                      このメッセージは2021.6.13のものです。