主に従い通す ヨハネ21章18-25節
イエスはペテロに言われた。「・・・あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21章21節)。
主イエスはペテロに、ご自身を信じる者たち(「わたしの羊」)を牧する使命を彼に委託された後、彼の殉教の死を予告されました。ペテロはそのとき、自分の後ろにいた弟子のことが気にかかりました。「イエスが愛された弟子」とは、たぶんヨハネのことだろう、と思われます。ペテロがどういう動機から「この人はどうなのですか」と尋ねたのでしょうか。主の「あなたに何の関わりがありますか」とのことばから、単なる好奇心というより、殉教の定めにある自分を不憫に思ったからかもしれません。主はあらためてペテロに、「あなたは、わたしに従いなさい」と命じられました。さて、主に従い通すために大切なことは何でしょうか。
まず、一人一人には神の御前に走るべき道のりがあることを自覚することです。パウロは愛弟子テモテへ送った手紙において、死を間近に意識しつつ、「走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」(Ⅱテモテ4:7、参 使徒20:24)と告白しています。ひとりひとりの信者には神によって備えられたそれぞれの道があることを覚えなければなりません。23節でヨハネが「死なない」という誤解が訂正されていますが、ヨハネは使徒の中では一番長生きし、一方ヨハネの兄弟ヤコブはいち早く殉教しなければなりませんでした(使徒12:2)。ペテロにはペテロの、パウロにはパウロの、そしてあなたにはあなたの「走るべき道のり」があるのです。
次に、主のお取り扱いに信頼するということです。ペテロはヨハネと自分を比較しましたが、私たちが神から目をはなして兄弟姉妹を見つめはじめるときに、そこにいくつかの問題が生まれてきます。その一つは高慢に、得意になってしまうことです。ペテロは、「わたしについて来なさい」との主の招きに応えて、網を捨て従い始めました(マルコ1:17)。その後、ペテロは「すべてを捨てて・・・従って来ました」との自負を語ったことがありました(マタ19:27)。そのとき、ペテロは悲しみながら主のもとを去って行った金持ちの青年と自分を比較していました。そのとき主は彼の高慢に警告を発し、「先の者が後に」なることがないようにと、「ぶどう園の労務者のたとえ」と呼ばれているたとえをお話しになりました(マタイ20:1-16)。自分が優位にあると考えて高慢になり、自分のようにできない弱い兄弟姉妹をさばいたり見下したりしないように注意する必要があります。
もう一つは、ねたみや自己憐憫です。自分の目からみて他の人が恵まれていると見える時、その人の持っているものがねたましく思えてきます。そして「なぜ私だけがこんなつらい目に会わなければならないのか」といった自己憐憫に陥ります。そこには神のお取り扱いに対する不満の思いが隠れています。それは「放蕩息子のたとえ」に登場する兄にみられるものです(ルカ15:29)。ねたみや自己憐憫は、兄弟姉妹を愛することをできなくさせ、神からすでに与えられている恵みまでもわからなくさせてしまいます。そして、心を合わせて共に主に仕えることを困難にします。私たち一人一人に対する神のお取り扱いは、変わらない愛の御手によるものであるとの信頼が必要です。
このメッセージの要約は2020.6.14のものです。なお、「ヨハネの福音書」1-21章のメッセージ(計70回)のさらに詳しい要約は、長野聖書バプテスト教会説教集『遣わされた神の御子』(B5, 138頁)にまとめられています。