再出発への備え ヨハネ21章1-14節

 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば取れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった(ヨハネ21章6節)。

 今日の舞台は「ティベリア湖畔」(1節)、すなわちガリラヤ湖畔です。これまでの復活の主の顕現の舞台はエルサレムを中心としたユダヤでしたが、今回はガリラヤです。彼らがそこにいるのは主の指示があったからです(参 マタイ26:32,28:10)。ここに7人の弟子たちが漁に出ていますが、彼らは当座の生活の糧を得るために、元漁師ペテロの「私は漁に行く」の声に加わったのでした。しかし、現実はそんなに甘いものではなく、一夜の漁は徒労に終わろうとしていました。そこに岸辺から漁の首尾を尋ねる一人の男性がありました。距離(8節「二百ペキスほどの」)があったこともあり彼らにはそれが誰であるかはわかりませんでした。しかし、彼らがその人の言葉に従って舟の右側に網を打つと、おびただしい数の魚が網にかかりました。彼らは「百五十三匹の大きな魚」を引き上げることができたのでした。そう言えば、今回と同じような大漁の出来事が数年前にもありました(ルカ5:1-11)。それはペテロたちが人間を取る漁師となるべく網を捨てて主に従うきっかけとなった出来事でした。そのこととの関連からかもしれませんが、「イエスが愛されたあの弟子」が、岸にいる男性が「主」であると分かり、そのことをペテロに知らせました。するとペテロは漁のことはそっちのけで上着をまとうと湖に飛び込み、主のもとへと一目散に泳ぎ出しました。ここにもペテロらしい行動的な性格が現われています。弟子たちは陸に上がると、主に暖かく迎えられて朝食の時を過ごしたのでした。さて、今回の出来事からどのようなことを見出すことができるでしょうか。

 まず、そこには以前と変わらない親しい交わりがあるということです。ペテロをはじめとする弟子たちは、主のために死ぬ覚悟があると豪語していましたが(マタイ26:35)、いざという時には主を見捨ててみな逃げてしまいました(26:56)。復活の主にお会いするのは今回が初めてではありませんが(参 ヨハネ20:19,26、ルカ24:34)、主を見捨てて逃げてしまったという後ろめたさや罪責感は完全に払拭されてはいなかったのではないでしょうか。そのような彼らに対する主の以前と変わらない親しい交わりへの招きは、彼らに本当の赦しを確信させるものとなったでしょう。赦しとは、「赦します。でも、あの人とはもう交わりたくありません」というものではないことを、主は身をもって示されたのです。

 次に、主は失敗した者を立ち上がらせてくださる方であるということです。かつて網を捨てて主に従うきっかけとなった出来事と同じような大漁の奇跡は、ペテロたちを、その召しの原点へと立ち返らせるものとなったに違いありません。失敗は人を萎縮させてしまいます。しかし、主の言葉に従うときに主が収獲を備えてくださることの再演は、主から委ねられた働きにこれから立とうとする彼らに大きな励ましとなったのではないでしょうか。主はここで弟子たちを再出発への備えをさせようとしておられるのです。

                    このメッセージは 2020.5.31 のものです。