トマスへの顕現 ヨハネ20章19-31節

 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ20章29節)

 「週の初めの日」の朝、復活された主イエスはまずマグダラのマリアにご自身を現わされ、その日の「夕方」には、使徒たちにご自身を現わされました。主はご自身を見捨てて逃げてしまった弟子たちに、叱責や小言ではなく「平安があなたがたにあるように」と繰り返しておられます(19,21,26節)。

そのことばには挨拶以上の意味、すなわち不安や恐れの中にいるご自身が約束された平安を与えようとするものであったのでしょう(14:27)。一週間後には、信じることができないトマスにご自身を現わされ「信じる者になりなさい」と諭しておられます(27節)。今回の箇所から私たちはどのようなことを見出すことができるでしょうか。

 まず、ご自身を見捨てた者たちに使命を託されているということです(21節)。ペテロは最後の晩餐の時に「あなたのためならいのちも捨てます」と言っていました(13:37、参 マタイ26:35 ほかの使徒たちも)。しかし、いざ主がゲツセマネで逮捕されたとき、彼を含めて使徒たちは皆主を見捨てて逃げてしまいました(マルコ14:50)。そのような彼らに、「わたしもあなたがたを遣わします」(17:18)と、ご自身が成し遂げられた御業の意味を世に伝えるために彼らの派遣を命じておられるのです。そして彼らがその使命を果たすことができるように聖霊を受けるように命じ、彼らを通して語られる救いの福音に、応答して信じる者には罪の赦しを約束し、逆に拒む者には裁きを警告されています。

 次に、トマスの告白から主の神性をはっきりと読み取ることできるということです。主はトマスが他の使徒たちの証言があるにもかかわらず復活を信じようとしなかったことを責められましたが、彼の「私の主。私の神よ」という告白を咎められることなく、彼の礼拝を受け入れておられます。もしご自身が、そのような告白や礼拝を受けるにふさわしくないと考えておられたなら、必ずそのことを問題にされたことでしょう。主がトマスの告白をどのように受け止められたか、そして、その告白をした者がどのような者であったかを考えることは重要です。なぜなら、トマスはユダヤ人であり、私たち日本人のように何でも神と告白するような者ではないからです。神のみが礼拝されるべきであることを十分に理解しながら彼は告白しているのです。

 次に、「見ないで信じる人たちは幸い」であるということです(29節)。マリアをはじめトマスを含めた使徒たちは「見て信じた」人たちです。確かにトマスの疑いは他の人のものより強かったかもしれませんが、見て信じたという点では同じです。主はトマスに「見ないで信じる人たちは幸いです」と言われましたが、それを「信じる根拠や証拠のないことを信じる人たちは幸いです」という意味(妄信や盲信を推奨する)に誤解してはなりません。

 今日、主ご自身を直接見て信じることができる人は誰もいません。それにも関わらず、私たちが信じると告白できるのは、「多くのしるし」の直接の目撃者である信頼できる使徒たちの証言があるからです。私たちの信仰の土台は、使徒たちの確かな証言に基づいています。信頼できる証言を信じることは賢明なことです。「見ないで信じる人たち」とは、主を直接見ることができなくなった世代から今日までの信じる私たちを含めてのことと言えるのです(参 Ⅰペテロ1:8,9)。

                      このメッセージは 2020.5.24 のものです。