マグダラのマリアへの顕現 ヨハネ20章1-18節
「イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った(ヨハネ20章16節)。
「週の初めの日」の早朝、墓に向かう複数の女性たちの姿がありました(マタイ28:1、マルコ16:1,ルカ24:1)。ヨハネは、あたかもマグダラのマリアが一人で出かけたように記していますが、それは彼女に焦点を当てているからです。
マリアについては多くのことは分かりませんが、彼女は主から「七つの悪霊を追い出していただいた女性でした(ルカ8:2)。福音書には悪霊によって精神的、肉体的に苦しみの中におかれた人たちが主によって解放されている場面が出て来ますが、彼女もそのうちの一人であり、彼女は七つもの悪霊によって苦しめられていたのです。その苦しみから解放された喜びや感謝が彼女に主に仕えていきたいという思いを起こさせたのでしょう。
マリアは「イエスがガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たち」(マルコ15:41)の一人であり、また主の十字架の死と埋葬の最後までを見届けていた一人でした。そのような彼女に主は復活されたご自身を最初に現わしてくださったのです(マルコ16:9)。
墓に行ったマリアが見たものは、埋葬されたはずの主の遺体ではなく、空の墓と主の遺体を包んでいた布のみでした。彼女は誰かによって主の遺体が運び去られたに違いないと思いました(2,13,15節)。彼女は主からご自身の受難と復活について聞いていたことでしょう。しかし、死は越えがたい現実として彼女の前に立ちふさがり、復活にまでとうてい思いが及ばないのです。その彼女に主は「マリア」と声をかけられます。それまで墓の「管理人」だと思っていた人が実は主ご自身であることに目が開かれ、マリアは「ラボニ」と応答します。「マリア」と「ラボニ」は、お互いに慣れ親しんだ呼び名だったのでしょう。それはあたかも羊飼いが羊の名を呼び、羊が羊飼いの声に反応している様子を連想させます(10:3-5)。
マリアは愛する主を失い、今またその遺体までも失い、涙に暮れています。その彼女に御使いも主も「なぜ泣いているのですか」(13,15節)と尋ねています。彼女の涙のわけを知りたいからではありません。もはや泣く理由がないんだよ、ということをわからせようとしているのです。涙に暮れるマリアの姿は厳しい現実に直面する中で、主はどこにおられるのだろうかと失望する私たち(復活を口では告白していても、あたかも主を死んだままの過去の人であるかのよう思っている)の姿と重なります。彼女が、そして私たちが途方にくれている本当の原因は「生きている方を死人の中に捜」(ルカ24:5)そうといるからではないでしょうか。
主は彼女に「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです」と語られています。「すがりついてはいけません」の禁止とその理由の「上っていないのです」のつながりは少々難解です。復活に続く昇天によって、これまでのように直に主の御顔を拝し、その語られる声を聞き、そのからだに触れることができなくなる時が近づいていました。いつまでも視聴覚で捕らえることのできる主の臨在に執着しているなら、昇天後の内住の御霊とみことばによって歩むことを阻んでしまいます。主との新しい関わりの中で生きることに備えさせようとしているのでしょう。
今、私たちはその新しい関わりのなかで生きている者たちです。見えないお方を見るように、信仰によって歩んでいきましょう。
このメッセージは 2020.5.17 のものです。