ピラトの法廷(2) ヨハネ19章1-16節

 ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」(ヨハネ19章12節)。

 前回に続いて総督ピラトの法廷を見ていくことにしましょう。ここにはピラトとユダヤ人たちの、主イエスの死刑をめぐる駆け引きが繰り広げられています。最終的にはユダヤ人たちがその駆け引きに勝利しますが、それに至る過程を両者から見ていきましょう。

  まず総督ピラトですが、彼はユダヤ人たちの告訴を受けて主を尋問し、すぐに主の無罪を確信します(18:38,19:4,6)。それで主を釈放しようと考えますが、治安維持のためにはユダヤ人たちを敵に回したくないとも考えています。それでまず彼は、主がガリラヤの出身であるとわかったので、ガリラヤの領主ヘロデのもとへ送って自分に代わって裁かせようとしました(ルカ23:7-)。しかし、主の身柄はすぐに彼のもとへと送り返されてしまいました。次に、過越において慣例となっていた恩赦を利用して主の釈放を試みようとしました。しかし、祭司長たちは群衆を扇動して、バラバの釈放を要求しました。次に彼は、むち打ちを執行し、主のみじめで哀れな姿をユダヤ人たちの前にさらして、彼らの敵意をなだめようとしました。しかし、そのような懲らしめでユダヤ人たちを満足させることはできませんでした。

 ピラトは何とかして「イエスを釈放しようと努力し」ましたが、ついにユダヤ人たちの要求を受け入れることを決心せざるを得ないところに追い込まれます。ユダヤ人たちが「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています」との言葉を突きつけられた時、皇帝に訴えられて失脚することを恐れたからです。彼が主の釈放を試みたのは、真の正義感からというより総督としてのプライドからであったことが分かります。ピラトは沈黙を守り続ける主にいらだち、生かすも殺すも自分の一存だとすごみましたが(10節)、結局は保身のために自分が望む判決を下すことができませんでした。

 一方ユダヤ人たちですが、何が何でも主を死刑にしようとする姿勢が見られます。まず、告訴理由(反逆罪)をでっち上げ、群衆を扇動して死罪への流れを作り上げようとしています。そこには証人を立てて有罪をしっかりと立証しようとする姿勢はありません。ピラトが死罪になかなか同意しようとしないので、ついには本当の告訴理由を明らかにし(7節 冒涜罪)、最後には皇帝へ反逆罪で訴えることを辞さない構えをにおわせ脅かしています。そして、決定的なのは、彼らの「カエサルのほかには、私たちに王はありません」(15節)との発言です。自分たちは「神の民」であり、「神こそ私たちを治める王である」という父祖たちから継承してきた信仰を放棄しています。彼らは主を冒涜罪で死刑だと宣告していますが、自分たちこそ神を冒涜している者になっているのです。

 ピラトやユダヤ人たちを見ると、彼らが所有していると主張している裁く権威(責任)や信仰を放棄していることがわかります。そして、彼らに共通しているのは「保身」に他なりません。誰でも「保身」に傾くとき、責任や信仰を危機にさらすことになります。人を恐れずに「神のほかに、私たちの王はありません」という告白にしっかり立つ必要があります。

          この礼拝メッセージは2020.4.26 のものです。