主に仕えるように Ⅰテモテ6章1,2節

 奴隷としてくびきの下にある人はみな、自分の主人をあらゆる面で尊敬に値する人と思わなければなりません。神の御名と教えが悪く言われないようにするためです(Ⅰテモテ6章1節)。

 1世紀のローマ帝国にはどれくらいの奴隷がいたと思いますか。ある歴史家は六千万人ぐらいと推測しています。奴隷には、戦争に負けて捕虜となった人々、貧しさのために身売りしなければならなかった人々がいました。彼らの職業もさまざまで、家事労働者、職人、兵士、主人の財産を管理したり、主人の子どもの家庭教師を務めたり、医師の奴隷さえもいました。

 福音がさまざまな人々に伝えられていく中で、社会的には奴隷という身分の人々の中にも信じる人々がでてきました。彼らは神のかたちに造られた人間としての尊厳を持つ者として、また、主人や奴隷という社会的立場を越えて同じ救いにあずかり、神の前に等しい存在として、新しい信仰共同体の中に受け入れられました(参 ガラテヤ3:28、Ⅰコリント12:13)。パウロは、救いという霊的な自由を手にして奴隷たちに(参 ガラテヤ5:1、Ⅰコリント7:22)、どのように主人に仕えなければならないかを命じています。1節では主人が未信者の場合を、2節では主人が同じ信者の場合を想定しています。

 私たちはこれまで、やもめに対して(5:3-)、長老に対して(5:17-)、そして、今回の奴隷の主人に対してのことばの中で、共通したものを見出します。それは、人に対する尊敬(5:3では動詞の「敬う」が、5:17と6:1では名詞の「尊敬」が用いられている)ということです。社会的に異なる人々に対して、私たちが基本的にしっかりと持たなければならない、人に対する敬意というものを教えられます(参Ⅰペテロ2:17、ローマ12:10)。

 パウロは未信者である主人に対して「あらゆる面で尊敬に値する人と思わなければなりません」と命じていますが、奴隷を理不尽に扱う主人に対して「あらゆる面で尊敬に値する人」と思うことは容易ではなかったのではないでしょうか。しかし、パウロは、その理由として「神の御名と教えが悪く言われないようにするためです」と述べています。奴隷がどのように主人に仕えるかは、奴隷の信じる神やその教えを証しするものになると考えているのです。奴隷がどのように主人に仕えるべきであるかを命じているテトスへの手紙2章9,10節を見ると、主人にとって信頼できる者となることを勧めた後、「あらゆる点で、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです」と、テモテへの手紙とは違って肯定的な理由が述べられています。奴隷が主人に忠実に仕えるとき、奴隷が信じる神の教えを未信者である主人にとって魅力的なものとするとしているのです。当時の奴隷と主人の関係を、単純に今日の労使関係に当てはめることはできませんが、雇用する側が、クリスチャンの仕事を通して、クリスチャンは裏表なく信頼できると評価するなら、それはよい信仰の良い証しとなるということです。

 奴隷が主人にどのように仕えるべきかについては、エペソ人への手紙6章5-8節にもあり、そこでは「キリストに従うように」「キリストのしもべとして」「人にではなく主に仕えるように」と勧められていて、「良いことを行えば、それぞれ主からその報いを受ける」と約束されています。目の前の人だけを意識するなら、見ている人の前ではうまく振る舞えばよいということになるかもしれませんが、それぞれの仕事を通して「主に仕えるように」ということが意識されるならば、賃金を得るために労働力を時間で切り売りするという働き方とは違った仕え方が生まれてくるでしょう。

 働く環境は厳しくなる一方ですが、そのような中で「誰に仕え」、どのように働いているかを、改めて問い直してみましょう。

                     このメッセージは2021.4.25のものです。