仕事の新しいあり方 コロサイ3章22節4章1節
パウロが三つ目に示している、主人と奴隷の関係を見ていきましょう。パウロは「奴隷たちよ」(22節)と直接呼びかけています。当時、教会には福音を信じて救われた奴隷たちもおり、彼らが共同体の一員として扱われていたことを意味します(参 ガラテヤ3:28)。そして子どもたちに対してと同じように、「すべてのことについて地上の主人に従いなさい」と命じられています。
では奴隷たちは、「地上の主人」にどのように仕えるべきなのでしょうか。その動機と態度について、まず否定的には「人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく」、肯定的には「主を恐れつつ、真心から」と説明されています。奴隷が主人に仕える動機は、人を喜ばせようとするのではなく、主(キリスト)を畏れ敬う思いからということです。態度については、主人が見ている時だけ、一生懸命に働いているように見せるのではなく、いつも誠実な態度をもって働くということです。23節では、パウロは奴隷が単に「地上の主人」に仕えているのではなく、「天の主人」(4:1)である「主」に仕える者であることを自覚させ、「主に対してするように、心から行いなさい」と命じています。
24節では、奴隷が主に仕える理由を約束という面から、25節では警告という面から説明しています。当時の社会では奴隷には相続権はありませんでした。その彼らに「御国を受け継ぐ」ことを思い起こさせているのです。そしてまた、彼らがどのように仕えたか、を神は公平に評価される方であること示しているのです(参 Ⅱコリント5:10)。
パウロは、「主人たち」に対しては、彼らは「天」の「主人」である「主」の「奴隷」であることを思い起こさせ、奴隷に対して「正義と公正」をもって扱うように命じています(4章1節)。
聖書は私たちクリスチャンに対して、特定の職業に就くように命じてはいません。しかし、仕事をどのような「動機」と「態度」で行うかについては語っており、今回の箇所からその適用を見出すことができるできると思います。クリスチャンは、単に雇用主のために働いているのではなく、主に仕えているということです。「人に対してではなく、主に対して」働いているという意識があれば、働く姿勢は自然と誠実なものとなるでしょう。
「仕事」は人生において大きな時間を占めるものですが、それ自体が人生の目的ではありません。健康に働ける時間も限られています。もし仕事そのものを人生の目的にしてしまえば、仕事を失うと同時に生きる意味も見失ってしまいます。
しかし、人生には一貫して変わらない目的があります。それが「神の栄光を現す」ことです(Ⅰコリント10:31)。これは、私たちが創造された目的であり(イザヤ43:7)、救われた目的でもあります(Ⅰコリント6:20)。
人生のライフ・ステージは変化していきますが、どのステージにおいても神の栄光を現すという目的は変わりません。今就いている「仕事」という手段を通して、神のすばらしさをどのように証しすることができるだろうか、と祈りつつ行動していくことが大切です。
たとえ人からの評価が低く、報酬も少ない仕事であったとしても、主に誠実に仕えているのであれば、主はそれを喜ばれるのです(参 ルカ16:10)。もし仕事を「自己実現の場」としてのみとらえるなら、必ず失望する時が来るでしょう。けれども、「主に仕える場」ととらえるなら、そこには確かな意味が生まれるのです。
このメッセージは2025.4.6のものです。


