三人の信仰 ルツ1章19節-2章17節

 1章は「飢饉と旅立ち」ではじまり、「帰還と収穫」で終わっています。22節の「大麦の刈り入れが始まったころ」(4月末)という言葉は、2章に登場するルツとボアズの出会いの舞台を整えるものとなっています。1章の終わりには、ルツをともなってベツレヘムに到着したナオミと町の女たちの会話があり、2章には、ボアズと雇い人たちとの会話、またボアズとルツとの会話がでてきます。主な登場人物たちの言動によって表わされている信仰から私たちはどのようなことを読み取ることができるでしょうか。

 まず、ナオミから見ていきましょう。ナオミは嫁たちにモアブに戻るように説得するなかで「主の御手が私に下ったのですから」(13節)と言っています。そして、ベツレヘムの女たちの「まあ、ナオミではありませんか」とのことばに彼女は「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください」と答え、「全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから」(20節)、さらに「どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに」(21節)と言っています。ナオミは神の存在を否定しているわけではありません。自分の苦しみが神のご支配の中にあることを認めています。でも、神を信じている故に、苦しみをしっかりと受け止めきれないでいるのです。「ナオミ」という名前を拒み、「マラと呼んでください」というのは、今自分が抱えている心情(「苦い」)と自分の名前の意味(「快い」、「喜ばしい」)とにギャップがありすぎるからです。このようなギャップは、知識としての神理解と、現実の生活(実体験)における神理解のギャップに置き換えることができるのではないでしょうか。

 ナオミは、かつて嫁たちに「主が・・・恵みを施してくださいますように」「主が・・・してくださいますように」と言っていました。ルツの素晴らしい信仰にはナオミの信仰の感化があっただろうと考えるとき、決してナオミを不信仰な女性と決めつけることはできないように思います。でも、辛い現実の中で神がどのように働いておられるのか分からなくなっているのです。ある人はナオミに「うつの症状」を読み取ることができると言っています。

 ヨブ記の1章には、多くの資産を所有し、十人の子どもを持つヨブが、それらを一度に失うという経験をしながらも、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と告白しているのを見ます(1:21)。そして「・・・神に対して愚痴をこぼすようなことはしなかった」とあります(1:22)。深い喪失の中で、皆がヨブのように告白できるわけではありませんし、むしろ、ヨブのように告白できる人はまれではないでしょうか。

 ナオミの苦しみの告白に対して町の女たちがどのように反応したのかは記されていません。彼女の苦しみを理解せず、「不信仰じゃないの」と言って、彼女の言葉を正そうとした、と書かれていないことにホッとします。なぜなら、苦しみを理解しようとせずに、安易に神にはきっとあなたの知らないご計画があるのでは、と言ってしまいやすいように思うからです。

 人がうつに陥ると、物事をとても悲観的に捕えてしまう面が確かにあるでしょう。ナオミは「私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました」(21節)と言っています。確かに、モアブに行くときにはいた夫も息子たちも、戻って来きたときにはいませんでした。しかし、厳密には素手であったわけではありません。ナオミの苦しみを理解し、彼女に寄り添い、彼女を支えようと決意していたルツがいたのですから。

 深い喪失感を抱えてベツレヘムに戻って来たナオミを思う時に、苦しみの中にある信仰者をどのように理解し、支えたらいいのかということを改めて考えさせられます。

—[ ルツとボアズの信仰については、後日編集予定の説教集を]–


               このメッセージは2022.7.24のものです。