キリスト者とこの世 ヨハネ15章17-28節

 「もしあなたがたが、この世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。」(ヨハネ15章19節)。

 15章では三つの関係が語られています。一つはキリストとキリスト者の関係です。これはぶどうの木と枝で示され、キリストに「とどまりない」と命じられています(4節)。もう一つはキリスト者同士です。この関係には「互いに愛し合」うことが命じられています(12,17節)。最後はキリスト者とこの世の関係です。敵意を向ける世に対して主を証しすることが命じられています(27節)。

 主は弟子たちを残して父のもとに行くに際して、弟子たちがこの世から「憎まれ」、「迫害」されることを前もって予告しています(19,20節)。それは彼らをそれらに備えさせ、彼らが「つまずくことのない」(16:1)ようにするためでした。では、なぜこの世はキリスト者を憎むのでしょうか。

 まず、それは彼らがキリストによって世から選び出され、キリストに属し、この世のものではないからです(19節)。キリストは光としてこの世に来られ、この世の暗闇、すなわち醜い罪の部分を照らし、さらけ出しました。しかし、この世は闇を愛し罪が暴かれるのを恐れて光を憎みました(3:19~20)。その極みが十字架です。主は「しもべは主人にまさるものではない」(20節、13:36)と言われ、もしご自身が世から憎まれたのであれば、弟たちも憎まれることを予期すべきであり、それを覚悟するようにと諭しています(参 Ⅰヨハネ3:13)。キリスト者たちはキリストに従う者として新しい目的に仕えて生きようとします。その生き方は当然「この世と調子を合わせ」ることができず、この世との摩擦を生じさせることになるのです(ローマ12:2)。

 次に、この世がキリスト者を憎むのは、主を遣わされた父なる神を知らないからです(21節)。これまで用いられてきた「世」ということばが21節以降では「彼ら」となっています。彼らとは主に敵対していたユダヤ人たちを指しています。彼らは、主の話すことばを聞き、主の行れたわざを見た上で主を拒みました。主は「彼らに罪はなかったでしょう」(22,24節)と繰り返していますが、彼らが罪人ではないと言っているのではありません。もし、彼らがご自身の言葉を聞いたこともなく、他の人が行なうことができない「わざ」を見たこともなかったなら、彼らの不信仰の責任を問うことができなったとでしょう、という意味です。主のことばやわざは主が父なる神から遣わされた者であることを明らかにするものであったのです(参 5:36、10:37,38)。ユダヤ人たちは主を信じるための証拠があったにもかかわらず信じようとしなかったので、「弁解の余地はありません」と言われているのです。そして主は、彼らの憎しみには根拠がないことは旧約聖書(詩篇35:19,69:4)の成就であることも示しています(25節)。ユダヤ人たちはキリストを憎むことによって、キリストを遣わされた父なる神を知らないことを明らかにし、キリストに対してと同様の態度を使徒たちに対してもとるのです。

 キリスト者たちはこの世から受け入れられ、愛されることを期待することはできません(参 Ⅱテモテ3:12、ピリピ1:29)。もしそれを期待するなら摩擦の少ない妥協の道を選び続けなければならないでしょう。では、キリスト者たちはこの世の憎しみに対してどのような態度をとるべきなのでしょうか。この世との関わりを避けて沈黙し、孤立してしまうべきなのでしょうか。もしそうするなら主を「証しする」ことはできないでしょう(27節)。主は私たちがただひとりで証しするように求めているわけではありません。なぜなら、主が「父のもとから遣わす助け主」も、主を証しするお方だからです。主は昇天前に「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、・・・わたしの証人となります」と約束されました(使徒1:8)。主が遣わされる御霊は、主の地上での働きを継続され、キリスト者たちの歩みを助けてくださるお方なのです。

                        このメッセージは2020.2.26のものです。