わたしの愛にとどまれ ヨハネ15章7-17節

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」 (ヨハネ15章9節)。

 主イエスはぶどうの木と枝のイメージを用いて、ご自身と弟子たちとの関係を説明され、多くの結実のために、「わたにとどまりなさい」(4節)と訴えられましたが、ここでは「わたしの愛にとどまりなさい」と言い換えておられます。その際に、まずご自身が父なる神の愛に従順をもって応答し父なる神の愛にとどまっていることを模範として(10節)、弟子たちにも同じように、ご自身の愛に従順をもって応答しその愛にとどまるようにと命じておられることがわかります。主が弟子たち求めておられる従順とは、具体的には弟子たちが「互いに愛し合う」(12,17節)ということです。

 さて、主はご自身の愛にとどまる者にどのようなことを約束しておられるのでしょうか。

 まず、一つは祈りの答えです。そこには「何でも」(7、16節)とあります。どんな自分勝手な願いでもかなえられることを保証するものではありません。弟子たちが主にとどまり、弟子たちのうちに主のことばがとどまることによって、しっかりと条件づけられていることがわかります。主の名によって祈るとは(16節)、主の御心にかなったことを、主に代わって祈ることを意味するのです。

 次は、喜びです(11節)。「喜び」は「御霊の実」のひとつです(ガラテヤ5:22)。同じことをするにしても、渋々とさせられていることには不満やつぶやきはあっても喜びはないでしょう。しかし、相手を喜ばせたいという愛が動機であるなら、そこには自発性や喜びがあります。主は父なる神に喜びをもって従っておられました。主はご自身に従う弟子たちと、同じような喜びを分かち合いたいと願っておられるのです。

 最後は、主が友となってくださるということです(参 ヨハネ11:11、ルカ12:4)。しもべ(奴隷)と友では大きく違います。しもべは主人からしなさいと言われたことをその意図がわからなくてもしなければなりません。しかし友は心の深いところまで立ち入ることが許され、そしてその思いを打ち明けてもらうことができます。聖書の中で「神の友」と呼ばれているのはアブラハムです(イザヤ41:8、ヤコブ2:23)。神はあたかも友であるアブラハムには隠しておくべきではないと言わんばかりにソドムへの裁きを明らかにしています(創世記18:17)。

 友とは一方的な関係ではありません。こちらからも安心して心のうちを明らかにできる存在です。そして、箴言17章17節には「友はどんなときにも愛するものだ」とあるように、友はどんな時にも信頼できる存在です。旧約聖書にはうるわし友の実例としてダビデの友ヨナタンの姿が際立っています。友のためにとりなし(Ⅰサムエル19:4-、20:32)、王から執拗にいのちを狙われ苦境の中にあるダビデを尋ねて励ましているヨナタンの姿は感動的です(Ⅰサムエル23:15-)。ダビデにはヨナタンがいました。私たちにはさらにまさるお方がいてくさるのです。なぜなら、その方は私たちのためにいのちを捨ててくださったお方だからです(参 13節、Ⅰヨハネ3:16)。

 私たちが主の愛にとどまるとき、それは私たちが本当の主の弟子であることを証明するものなり、神はそれによって栄光を受けられます(8節)。そして神の恵みによる選びの目的がそこに実現することになるのです(16節)。

    このメッセージは2020.2.16 のものです。