洗足の意味 ヨハネ13章1-15節

 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです(ヨハネ13章15節)。

 浜松の三方原という場所に、聖隷三方原病院を中心とした一大福祉タウンがあります。それらの礎を築いたのは、長谷川保(1903-1994年)というキリスト者です。彼は1930年、当時不治の病として恐れられていた結核患者の療養施設(聖隷三方原病院の前身)を開設しました。1981年には、日本で最初のホスピスも開設しいています。

 彼が用いた「聖隷」は、ヨハネの福音書13章14節の「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」に由来しています。

 時は主が十字架にかかられる前夜、最後の晩餐が行われた「二階の広間」での出来事です(マルコ14:15)。主は食事の「席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとい」、「たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられた手ぬぐいで、ふき始められました」(4ー5節)。弟子たちは当惑しながらも、きっと恥じ入ったのではないでしょうか。と言うのは、弟子たちは誰が偉いかという野心で満たされていて(参 ルカ22:24-)、だれも自分を低くして誰かの足を洗おうとしなかったと思われるからです。

 ユダヤでは誰かに招かれて宴席に出かける時、まず家で「水浴」してから出かけます。招かれた家に到着すると、その家の主人はしもべに命じて、ほこりまみれになった招待客の足を洗い、家に招き入れます。しもべがいない家では、先に到着した来客のひとりが、すすんでしもべの仕事を引き受け、後から来る人たちの足を洗いました。今回の会場は借りた広間であったので足を洗ってくれるしもべはおらず、また弟子たちのだれもその役を買って出なかったために、主はあえて彼らがしようとしなかったことをされたものと思われます。

 足を洗う順番がペテロになると彼は「主であり師」である方にしもべのように自分の足を洗わせることはできないと「決して私の足をお洗いにならないでください」(8節)と強く拒みました。しかし、主が「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と言われたとき、彼は即座に極端に反応して「手も頭も洗ってください」(9節)と言いました。彼は主が足を洗うことを通して何を教えようとしておられるかを理解していませんでした(7節)。主は洗うことを通して、差し迫ったご自身の死が罪のきよめを意味することを教えようとされたのでした(参 Ⅰヨハネ1:7,9)。 

 主は弟子たちの足を洗い終わった後、「あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」(14節)、「わたしはあなたがたに模範を示したのです」(15節)と言われました。主は文字通りに足を洗い合う儀式を命じれられたのではなく、彼らが互いにへりくだって仕え合うことを足を洗うという行為をもって示されたのでした。自分の必要や権利ばかりを考えているならば、だれかに仕えることはできません。相手の必要や関心に注意を払わなければできないことです。謙遜とは自分を卑下することではなく、自分のことを忘れることなのです。主はご自分のことを忘れてこの地上に「仕えるため」(マタイ20:28)に人となって来て下さり、いのちまでもささげてくださいました。その方の模範に従いましょう(参 Ⅰペテロ5:5)。

この礼拝メッセージは2019.12.19のものです。