どの宗教でも同じでは
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間には与えられていないからです(使徒の働き 4章12節)。
世界には実に多くの宗教が存在します。ある人たちは「登り行く麓の道は異なれど、同じ高嶺の月を見るかな」という歌を引用し、結局はどの宗教も同じ神を目指しているのではないかと言います。諸宗教に見られる多様性は歴史的・文化的なものであって、すべての宗教は同じ神(究極的実在)に対する応答であるという考え方は「宗教多元主義」と呼ばれています。「八百万の神」を信じる日本人にとって、この考えは共鳴できるところが少なくないでしょう。
誰かが自分の信じていることは唯一正しいと主張すると、それはあまりにも心が狭く独善的ではないかと考える人々がいます。「寛容である」ことは大切な事ですが、真理は排他性を持っていることを見落としています。例えば、2プラス2の唯一正しい答えは4です。4も正しいが10も正しいと答える人の方がもっと「寛容である」とは誰も言わないでしょう。4が真理であるするならば、4以外は誤っていると主張することは、「寛容であるか、ないか」の問題ではありません。「寛容ではない」とは、ある宗教を信じている「人々」(信じている事柄ではなく)を非常識な形で攻撃したり、非難したりすることに対して使われるべきです。
どの宗教も同じではないですか、という考えは論理的に誤っています。Aという宗教と、A以外の宗教が同時に正しいと言うことは、先ほどの算数で説明すると、2プラス2は4であるが同時に10も正しいとする事です。異なる宗教(キリスト教、イスラム教、仏教など)が同時に正しいというのは、諸宗教に見られる類似性に焦点を当てすぎていて、決定的な相違点を見落としているからなのです。
キリスト教は、キリストの十字架の死と復活という歴史的事実を根拠とする宗教です。誰かがその歴史性を完全に否定すること出来るならばキリスト教は基盤を失うことでしょう。キリストの死は「私たちの罪のため」であり(Ⅰコリント15:3)、復活はそのキリストの死が確かに私たちの罪の贖罪を成し遂げるものであることを証明しています(15:17)。キリスト教はキリスト以外に救いの道はないとする宗教です。もし、キリスト教徒がキリスト以外に救いがあると言うならば、そのキリスト教徒はキリストの死の意味を否定していることになります( ガラテヤ2:21)。
世界各地で続いている紛争が宗教間の対立として説明されることがありますが、それは表面的な見方にすぎません。人間がかかえる罪(利害関係)という問題が人を戦争や紛争へと駆り立てているのです。人間の罪に対する解決を提供するキリストこそ神に至る道なのです(参 ヨハネ14:6)。