赦しについて

 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません(マタイ6章14-15節)。

 「赦し」は私たちの生活にとても身近な問題です。もしお互いに「赦し、赦される」ということがないならば大切な人間関係(友人、親子、夫婦、兄弟姉妹)は修復困難となり、やがて破壊に至るでしょう。聖書は私たちに「悪に悪を返さず返さず、…すべての人と平和を保ちなさい」(ローマ12:17,18)と命じていますが、「赦せない」という問題をどのように解決したらよいでしょうか。

 赦しの問題は、「怒り」を正しく処理するということでもあります。ですから、まず最初に検討しなければならないのは怒りの原因です。すなわち、あなたの怒りは適切(正当)な怒りか、それとも自分の思い通りにならないための利己的な怒りかということです。次に検討しなければならないのは、その怒りをどのように処理しているかです。その処理法は大きく3通りに分けられるでしょう。一つは「爆発」です。誰かや物を犠牲にして怒りを吐き出す方法です。時にはそれは人格攻撃や暴力となります。2つ目は「爆発」とは対照的な「黙殺」(押し殺す)です。そのような悪い感情を抱いてはいけないと、自分のなかに怒ることを許さない方法です。心の奥底に深くしまい込まれた怒りは未処理のままですから、いつか爆発するか、心身の健康を損なうという形で表れてくることになります。「爆発」は相手を傷つけ、「黙殺」はその人自身を傷つける、共に不健全な怒りの処理方法です。健全な方法は「率直」です。適切な怒りであれ、不適切な怒りであれ、怒りを率直に認めることは大切なことです。なぜなら、あなたがそれを認めようとしなくても神は心の中までご存じだからです。怒りは神がお与えになった感情の一つであり、私たちに問題が発生したことを知らせるシグナルのようなものなのです。そのシグナルに対する正しい反応は、「爆発」や「黙殺」ではなく、相手を責めない(攻撃しない)で優しく愛をもって自分の必要を相手の分かる言葉で伝えるということです。怒りをため込まないで、その都度健全な方法で処理していくことは、心身や霊的な健康にとって大切なことです。

 この世の考えでは「やられたらやりかえす」という方法が一般的であり、一方的に傷つけられた方がなぜ赦さなければならないのか。それはもっともな思いです。しかし、聖書はキリスト者たちに「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい」と命じ、その理由として「神もキリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです」としています。

 罪の赦しは神の恵みです。それはキリストを信じる者すべてに約束されています。もし、罪を何らかの行いによって償い得ると考えているなら、罪の代価を軽く考えているのです。そのために「ひとり子」という代価が払われたのです。私たちが赦しを神から恵みとして受け取ろうとするなら、私たちも赦しを恵みとして差し出さなければならないのです。冒頭の聖句で、主は赦すことと赦されることを切り離してならないと警告しています。深刻な傷を受けて、赦しの問題を抱えている人に、「はじめから赦しなさい」とアプローチすることは酷なことでしょう。赦しは時に長いプロセスを必要とすることでしょう。しかし、神にはできないことはありません。まず、しっかり怒りと向き合い、神の赦しの恵みを理解するとき、赦しへの一歩を踏み出すことができるのです。



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