指導が目指す目標 愛 Ⅰテモテ1章3-11節

 この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です(Ⅰテモテ1章5節)。

 パウロはテモテに「エペソにとどまり」、教会を牧会するために必要な指導や助言をしていますが、パウロとテモテがどこで別れたのか明らかではありません。二人ともしばらく前にエペソにいて、パウロはテモテをエペソにとどまらせて自分はマケドニアに行ったのか、それとも違う所で別れてマケドニアに行ったのか、二つの可能性が考えられます。パウロは以前に口頭で伝えていた指示を改めてこの手紙で確認しています(3,4節「行くときに言ったように、・・・命じなさい」)。

 パウロは手紙の挨拶が終わると、すぐにテモテが対処しなければならない問題に入っています。そのことは問題の深刻さを示しているのでしょう。その問題とは、にせ教師の問題です。パウロが第三次伝道旅行の帰路、エペソの長老たちをミレトスに呼び寄せた際に、自分が去ったあとエペソ教会ににせ教師の問題が起こることを予告していましたが(使徒20:29,30)、そのことが現実のものとなっていたことがわかります。

 にせ教師たちのことは「ある人たち」(3,6節)と、匿名となっています。彼らは何を説いていたのでしょうか。「違った教え」とあります。それは「健全な教え」(10節)とは反対のものです。「作り話」や「系図」については、どういうものか詳細が明らかではありません。いずれにしても健全な信仰を養う神のことばから離れて、そのようなむなしい「論議を引き起こす」ものに心を奪われていた人々を、パウロは指導するように命じているのです。それは神から託された務めを果たすためです。

 パウロは指導の目標について「きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛」であるとしています(5節)。愛が生じると言っている三つについて少し見ていきましょう。まず「きよい心」とは何でしょうか。「心」は私たちの人格の中心にあり、さまざまな考えや感情がうまれ、意志の決定がなされるところです。その心が「きよい」とは、ふた心がなく、真実だということ、またけがれていないということです。生まれながらの人間は罪の影響を受けていて心がきよい状態にはありません。人は自分の心を自分できよくすることはできないので、神によって心が新しくされる必要があります(参 エゼキエル36:26)。そのためには信仰が必要です(参 使徒15:9)。二つ目の「健全な良心」とは何でしょうか。「良心」は、私たちのうちにあって、正しいことをしたときにはそれを是認し、悪いことをしたときにはそれを告発する働きをします(ローマ2:15)。人は神のかたちに造られているので、神の道徳的な基準を反映する良心が私たちに与えられています。しかし、この良心も罪の影響によって正しく機能している状態にあるとはいえません(参 テトス1:15)。この良心が健全に機能するためには、やはり信仰をとおして神との正しい関係を持つことが必要です。三つ目の「偽りのない信仰」とは、福音に対する正しい応答にはじまり、日毎の神との交わりのうちに得られるものです(参 マタイ6:1-)。パウロはこれらの三つが愛の源泉であるとしています。

 6節の「ある人たち」とはにせ教師たちのことです。彼らは律法の教師でありたいと望みながら、律法の機能や目的も理解せず、それを誤って用いていました(8節 それに対して、パウロは「私たちは」正しい用い方を知っていると言っている)。彼らは律法を教えようとしていますが、愛を生みだす「きよい心と健全な良心と偽りのない信仰」を見失っていました。律法を用いて直接的に振る舞いを変えよう、愛を生み出そうとするなら、それは律法を誤って用いることであり、必ず失敗することになるでしょう。

 「律法を適切に用いる」(8節)とは、律法を守ろうとしない人々を罪の事実へ向き合わせ(ローマ3:19-20)、キリストの福音へと導くために用いるということです(参 ガラテヤ3:24)。そして、福音を通して変革した心が愛を生み出すのです。愛は「律法の要求を満たし」ます(ローマ13:8、参 ローマ8:1-4)。パウロの指導が目指す目標は、その愛だったのです。


                             このメッセージは2021.1.24のものです。