ヨハナン エレミヤ42,43章

 

 私たちは必ず、あなたの神、主が私たちのためにあなたを遣わして告げられることばのとおりに、すべてを行います(エレミヤ42章5節)。

 

 今回は、人生の岐路に立った「カレアハの子ヨハナン」という人物に焦点を当てて、そこからどのようなことが見いだせるかを考えていきましょう。

 ヨハナンが岐路に立たされてどのように行動しているかは、エレミヤ書42,43章に出てきます。彼はこの時、残った民を率いてエジプトへと逃れようとしていました。しかしその前に、主の預言者エレミヤを通して主の御心を求めることにしました(42:2,3)。エレミヤがその願いを了承したとき、ヨハナンらは、主を証人に立てて、「私たちは必ず、あなたの神、主がわたしたちのためにあなたを遣わして告げられることばのとおりに、すべて行ないます。それが良くても悪くても、・・・私たちの神に、主の御声に聞き従います」と、答えています。そして、その理由として「主の御声に聞き従って幸せを得るためです」とも述べています。

 人生の岐路において主の導きを求めて祈ることは大切なことです。ヨハナンは、ユダに留まるべきか、それともエジプトに逃れるべきか、という選択において、預言者を通して主の導きを求めました。箴言には「心を尽くして主に拠り頼め、自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる」(3:5,6)、「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる」(16:9)とあります。主を視野に入れないで、自分の悟りに頼り、人生の選択をすることは賢明なことではありません。

 ヨハナンは、単に自分の進むべき道を主に問いかけているだけでなく、たとえ自分の願いに反した道であろうとも、神が導いてくださるならその道を行くと誓っています。そこには主への信頼があります。このような開かれた心をもって主の導きを求めることは大切です。なぜなら、自分の思いや願いに固執しているときに、主の導きを得ることは難しいばかりか、聖書のみことばや状況を自分の願いにそって解釈してしまうからです。

 エレミヤに導きを求めてから十日が経過して、主の導きが明らかにされました。もしユダに留まるなら守りがある(10-12節)、しかし、エジプトに逃れるなら生き延びることができない(13-18節)、という内容でした。エレミヤは、十日前の誓いを思い起こさせ、「エジプトに行ってはならない」と警告し、そればかりか、ヨハナンたちがすでにエジプト行きを決心していることをも、明らかにしています(21,22節)。

 ヨハナンたちは、エレミヤのことばにどう反応したでしょうか。エレミヤに「偽りを語っている」と言っています。あなたは主の導きによって語っているのではないとし、さらに書記バルクの意見に惑わされているのだとして、主の御声を拒絶しています。

 もし主の導きが「エジプトへ行け」だったら何の葛藤も問題も起こらなかったでしょう。自分の願いと主の導きが食い違うとき、主の御声に従うことが幸いであると本当に信じているのか、という信仰が問われます。もし自分がすでに決めたことをただ主に承認してもらおうとしているだけなら、そこには主への本当の信頼はなかったと言えるでしょう。

 人生のさまざまな選択において、聖書のみことばは大きな方向性を示してくれていても、具体的な選択の道を示してくれているわけではありません。どうしたらいいのだろうか、とだれでも迷うことがあるでしょう。ある聖書学者は、「神に喜ばれる、賢い決断をするにはどうしたらよいか」と問いかけることをアドバイスしています。主に信頼し、賢い選択ができるように祈っていきましょう。

                      このメッセージは 2020.6.28 のものです。