神に喜ばれるささげ物 創世記4章1-16節
神はなぜ、弟アベルのささげ物を喜ばれ、カインのささげ物を喜ばれなかったのでしょうか。ある人たちは、動物の血による犠牲だったからではないかといいます。しかし、そのような見解は読み込み過ぎだと思います。なぜなら、両者に用いられている「ささげ物(ミンハー)」は、作物のささげ物にも動物のささげ物にも用いられる語であること、そして、農夫であるカインが作物を、羊飼いであるアベルが羊をささげたことはとても自然な事と考えられるからです。この箇所には、ささげ物が贖罪のための犠牲でなければならないことを示唆することばは全くありません。
この出来事に言及するヘブル11章4節には、「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ」とあり、アベルのささげ物が評価されたのは信仰によることが示されています。今回の箇所には、「アベルとそのささげ物」「カインとそのささげ物」とあるように、ささげた人とその人のささげ物がしっかりと対になっていることがわかります。神の評価を分けたものは、動物か作物かではなく(イザヤ1章には動物の血による犠牲であっても、神が受け入れられないケースを示している)、ささげる人の動機や姿勢、つまりささげる心のあり方と理解すべきだと思います。アベルのささげ物の「初子の中から、肥えたもの」(選別されたもの)は、彼のささげる心の表れとしてみることができるでしょう。
カインがアベルを殺害する描写は8節にあります。その犯行前(6-7節)と犯行後(9-12節)に神がどのようにカインに関わっておられるかを見る時に、神は、カインのささげ物を喜ばれなかった事は確かですが、彼自身を拒絶されたのではないことが分かります。
犯行前において神はカインに「なぜ、あなたは怒っているのか」(6節)と尋ねておられます。神は理由を知らないので尋ねているのではありません。知っているのです。神は、心を開こうとしないカインに続けて、「もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる」(7節)と述べています。もし、カインが自分のささげる動機や姿勢に問題がないと考えていたなら、神に心を開いて、どうして私のささげ物を受け入れてくださらなかったのですか、と尋ねることができたでしょう。そのように尋ねることができなかったのは、自分のささげる心のあり方が良くないことを自覚していたからではないでしょうか。
今回の出来事から、どのようなささげ物を神が喜ばれるのかを読み取ることできます。神がささげものを評価する視点は、まずささげる人の動機や姿勢です。つまり、心のあり方です(Ⅰサムエル16:7)。次は「ささげ物」そのものです。
神は献げる人の自発性や喜びを評価されます(Ⅱコリント9:7,Ⅰ歴代誌29:5-6,9,17)。惜しむ思いや自分の信仰深さを誇示するためのささげ物を喜ばれません(使徒5章、マルコ12:41-44)。私たちは、神の救いをはじめとするさまざまな神の恵みによって今を生かされています。そのことを覚えて信仰をもって神が喜ばれるささげ物を献げていきましょう。
このメッセージ2025.12.7のものです。


