神をほめたたえる理由(1)エペソ1章3-6節


 今回と次回で、手紙の頌栄(賛美 3-14節)の箇所を見ていきましょう。この頌栄は、パウロの手紙の中でも異例なほど長い一文(原語において)からなっています。そして3節は、その長い頌栄全体を要約したものと言ってよいでしょう。パウロは「神はキリストにあって、・・・私たちを祝福してくださいました」と述べ、だからこそ「神がほめたたえられますように」(新改訳2017では、願望の形で訳しているが、原語に近い意味は「神は祝福されるに値する、祝福がふさわしい」である)と宣言しています。パウロは「私たち」と言って、自分を含めたエペソのキリスト者たちが神からどのような霊的祝福を受けているかを、4節以降で具体的に挙げています。そして、それらの祝福が、私たちが神をほめたたえる理由(根拠)であることを示しています(6、12、14節)。


 では、霊的祝福を順番に見ていきましょう。その第一は「選び」(4節)です。しかも「世界の基が据えられる前から」(共同訳「天地創造の前に」)というのですから驚きです。このことは、神の選びが私たちの何か(性質や功績)に基づくものではなく、神のまったく自由な意志(主権)に基づくものであることを意味しています。イスラエルの民が選ばれたのも同じです(参 申命7:7–9)。ですから、私たちは誇ることができません。むしろ「私のような者が」と謙遜にならざるを得ません。

では、神の選びの目的は何でしょうか。パウロは「御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」(4節)と述べています(参 5:27)。もし「私は救いに選ばれていたのだから、信じた後は自分の好きなように生きていこう」と考えているなら、それは「選び」の目的を見失っています。パウロはエペソのキリスト者たちを「聖徒たち」(1節)と呼んでいました。それは神のために取り分けられた者という意味です。私たちは「聖徒となるために」ではなく、「聖徒とされた」ので、聖徒にふさわしい歩みが期待されているのです(5:3)。


 祝福の第二は、「ご自分の子にしようと、・・・あらかじめ定めておられました」(5節)とあるように、「養子としてあらかじめ定めておられた」ということです。「子にしようと」とは養子縁組を意味しています。養子縁組はローマ・ギリシア社会において一般的な制度でした。養子とされた者は、実子と同じ権利を持つ者として家族の一員に迎えられました。「愛をもって」とあるように、神は愛をもって、あらかじめご自身の家族に私たちを迎えようと計画しておられたのです。神に背を向け、御怒りを受けるにふさわしい私たちが(参 2:3)、今では神の家族の一人として「天のお父様」と親しく呼ぶことが許されているのは、何という恵みでしょうか。


 私たちが選ばれ、神の子どもの一人とされているのは、「神がその愛する方」(6節)、すなわち「愛する御子」(コロサイ1:13)であるキリスト「にあって」のことです。キリストにある神の愛と恵みを受け止めるとき、それにふさわしい私たちの応答は何でしょうか。それは神をほめたたえることではないでしょうか。パウロはこの後も霊的祝福を挙げながら、私たちを神への賛美へと導こうとしています(12、14節)。言い換えるなら、パウロは神のすばらしい救いにあずかっていることを私たちに理解させ、神礼拝へと招いているのです。


     このメッセージは2026.3.1のものです。