誘惑と罪 創世記3章1-13節
最初の人アダムとエバが禁断の木から食べた場面を見ていきましょう。最初に「蛇」が登場しますが、ヨハネの黙示録には「古い蛇」(12:9,20:2)が悪魔と呼ばれているので、蛇と悪魔を同一視できるでしょう。この場面から、悪魔の誘惑の巧妙さがわかります。まず、正体を隠して近づいているということです。次に、神の命令を直接聞いたアダムにではなくエバに近づいていることです。さらには、とても誘導的であるということです。悪魔は、エバに対して「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか」と尋ねています。悪魔は、あえて誤ったことを言って彼女を会話に引き入れようとしているのです。
エバは、悪魔の誤りを正そうとしました。彼女のことばを見ると、正確さに欠けるばかりか間違って受け止めていることがわかります。まず、彼女の「私たちは園の実を食べてもよいのです」は、神の寛大な配慮(「園のどの木からでも思いのまま」)を少し弱めています。次の「それに触れてもいけない」は、神のことばに付け加えています。最後の「あなたがたが死ぬといけないからだ」は、死の確実性を弱めてしまっています。
悪魔は、エバの神のことばの理解に隙があることがわかると、すかさず「あなたがたは決して死にません」と神のことばを大胆に否定し、神の動機を疑わせました(5節)。神が禁断の木を園に置いているのは利己的で、「あなたがたが神のようになって善悪を知る者」とならないようにしているのだと。悪魔は禁断の木から食べるなら、新しい洞察を得て、新しい人生が開けるのだとほのめかしたのです。悪魔は今日も変わりません。同じように神のことばを否定し、その動機を疑わせ、人々から神を遠ざけようとしているのです。
エバは、禁断の木を改めて見たときに、食べたいという強い欲求を抑えることができなくなっていました(参 Ⅰヨハネ2:16)。彼女は食べ、そしてそばにいたアダムも、食べてしまったのです。
悪魔が「目が開かれ」(5節)ると言ったように、彼らの目は開かれました。しかし、結果は彼らが期待したものとは違っていました。まず、彼らは「自分たちが裸であることを知」り、その裸の腰をいちじくの葉で覆いました。2章25節には「ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」とあります。かつての二人の間には安心と信頼があり、ありのままの自分でいられ、相手に自分を隠す必要はありませんでした。しかし、罪によって二人の親密な関係は失われてしまったのです。
罪は、神との関係にも変化をもたらしました。アダムとエバは神の臨在に気づくと身を隠しました。かつて神の存在は、彼らにとって恐れの対象ではありませんでした。しかし、神の強い警告を無視して食べた彼らは罪責感を持つようになり、神の御前に立つことができなくなってしまいました。
神はアダムに「あなたはどこにいるのか」と呼びかけています(9節)。所在を尋ねているのではありません。アダムとの関係性を問いかけているのであり、罪の悔い改めと告白を導こうとしているのです。
罪は他者との関係を損ない、そして神との関係も損なってしまいました。その現実は今も変わっていません。しかし、神は人を見捨てられたわけではありません。神はキリストを通して赦しの道を備え、ご自身のもとに立ち返るように、今も「あなたはどこにいるのか」と呼びかけているのです。あなたはその問いにどのように応答されるでしょうか。
このメッセージは2025.11.23のものです。


