満足することを学ぶ ピリピ4章8-13節
パウロはピリピの信者たちに、これまでの宣教支援に対する感謝を述べています(10-20節)。支援に対する感謝はこれまでも間接的に触れられていましたが(1:5-7,2:25)、ここでは直接的です。10節の「私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたことを」という言葉を読むと、パウロに対する支援が、どのような事情からかは分かりませんが中断していたようです。そのことは、「ついに」や「よみがえってきた」ということばから読み取れます。何が「ついによみがえってきた」というのでしょうか。自分に対するピリピの信者たちの思いです。パウロは、支援の中断は「機会」がなかったためであり、彼らが自分に対して冷淡になったり無関心になっていたからではないと考えています。
パウロは、今回のエパフロディトを通しての支援に対して「主にあって大いに喜んでいます」(10節)と述べています。パウロは、「主にあって喜びなさい」(3:1,4:4)と命じていましたが、ここでは自らが「主にあって喜んでい」るのです。「主にあって」ということばから、パウロは支援を主の恵みとして受け止めていることがわかります。パウロは、ピリピの信者たちの支援を感謝しつつも、二つの誤解を避けようとしています(7節)。一つは、さらなる支援を求めているのではないということです。そしてもう一つは、「大いに喜んでい」る理由が支援(贈り物)そのものではないということです。確かに、支援はパウロの必要を満たしたでしょうが、彼の喜びの中心は贈り物そのものではなく、そこに表された自分に対する愛情や福音を伝える働きを支援したいとの思いなのです。
11節において、パウロは「乏しいからで・・・はありません」と述べて、自分が「どんな境遇にあっても満足することを学びました」と続けています。そして、「富むこと」と「乏しいこと」という両極端な状況の表現を重ねて「ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」と主張しています。
パウロが言う「秘訣」とは何でしょうか。13節で「私を強くしてくださる方によって」と明らかにしています(参 Ⅰテモテ1:12)。キリストが、あらゆる状況を受け入れて生きることができるようにしてくださったからです。「どんなことでもできるのです」という表現は、自分の望む事は何でもできるという意味ではありません。あらゆる状況に満足して生きることができるということです。彼自身が強いからでしょうか。そうではありません。彼が信頼するお方が強いからなのです(3:10,21)。
私たちが満足することを学ぶために必要なことは何でしょうか。一つは、満足することを妨げるものが何かを理解することです。それは「貪欲」(参 伝道者5:10,ルカ12:13-15)や「ねたみ」(参 ガラテヤ5:21,26)、そして感謝の欠如(参 Ⅰテサロニケ5:18,エペソ5:20)です。これらは豊かな者からも貧しい者からも満足することを妨げてしまいます。救いをはじめとする主の恵みの中に生かされている事を忘れるとき、不平や不満が大きくなっていくのではないでしょうか(参 詩篇103:2)。
もう一つは、「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(ヘブル13:5)と約束された方に信頼することです。これはまさに、パウロが「私を強くしてくださる方によって」(13節)と語ったことに通じることではないでしょうか。
このメッセージは2025.11.9のものです。


