ピリピ人への手紙 ピリピ1章1節



 これから、十三通のパウロの手紙のうちの一つである『ピリピ人への手紙』を取り上げていきます。ピリピ教会の誕生の経緯、手紙の執筆場所と時、手紙が書かれた理由、手紙のテーマを見ていきましょう。

 ピリピ教会がどのように誕生したのかについては、『使徒の働き』16章を見ると分かります。パウロたちは、はじめからピリピ宣教を考えていたわけではありませんでした。第二回伝道旅行の途上の「リステラ」で「テモテ」を同行させ(16:3)、「アジア」や「ビティニア」(使徒16:6,7 現在のトルコ)での宣教を考えていましたが、聖霊によってその道を禁じられ、アジア州の北西にある港町「トロアス」へと導かれました。そこでパウロは、幻の中で一人のマケドニア人の「私たちを助けてください」との声を神の導きと確信し(16:9-10)、エーゲ海を渡り、ヨーロッパの地へと足を踏み入れ、エグナティア街道沿いにある「ピリピ」の町へとやってきたのです。パウロたち(シラス、テモテ、ルカ)の宣教によって、紫布の商人リディアとその家族(16:15)、さらには、ピリピの看守とその家族(16:33)が信仰に導かれ、彼らがピリピ教会の礎となったと考えられます。

 次に、手紙の執筆場所と時についてですが、手紙から分かることは、パウロはこの時投獄されていて、裁判の判決を待っていたということです(参 1:7,13-14,17)。『使徒の働き』には、パウロが投獄されたことが数回出てきますが、そこで投獄場所として考えられるのは「カイサリア」か「ローマ」です。伝統的な見解はローマです。しかし、ローマとピリピ間の距離(約1200キロ)が余りにも離れすぎていると考えて(手紙から、投獄場所とピリピとの間を少なくとも数回の往来が考えられる)、『使徒の働き』には投獄の記述はありませんが、「エペソ」の投獄を想定する人たちもいます(参 Ⅱコリント11:23)。伝統的な見解の「ローマ」とするなら(参 1:13,4:22)、AD60-62年ごろに記されたと考えられるでしょう。

 次に、手紙が書かれた理由についてですが、手紙から読み取れるのは、一つは、ピリピ教会の支援に対する感謝を表すためです。手紙からパウロとピリピ教会の親しい関係がうかがえます。ピリピ教会は、パウロの宣教の働きを初めから今日に至るまで支援してくれた教会だったからです(1:6,4:15)。パウロが投獄されたことを心配した教会は、エパフロディトを派遣して贈り物を届けてくれたのです(2:25,30,4:18)。二つ目は、自分の近況を知らせ、今後の予定に備えさせるためです。パウロは、自分の投獄がかえって福音の前進に役立ったことや(1:12-)、利己的な動機から福音を伝える者たちがいるが、福音が伝えられることを喜んでいることを報告しています(1:15-18)。愛弟子であるテモテを派遣しようとしている予定(2:19)や重い病気から癒やされたエパフロディトを送り返す予定(2:25)を伝え、それに備えさせようとしています。三つ目は、自らの生き方を示し、内外の問題に対処し、信仰の成長を励ますためです。パウロは福音の宣教者であっただけでなく、牧会者でもあったことは他の手紙を通してもわかります。ピリピ教会のクリスチャンたちの霊的な成長を励ますことばを読むならば(1:9-11,1:27,2:12-16)、手紙の目的が彼の牧会的関心に基づくものであったことが分かるでしょう。

  – 四つのテーマについては省略 –



               このメッセージは2025.8.17のものです。