バベルの塔 – 砕かれた野心 創世記11章1-9節
「バベルの塔」の出来事は、「ノアの洪水」と並んで、よく知られている出来事でしょう。聖書は、言語が分かれてしまったルーツを、この出来事にさかのぼらせています。
舞台となった地は「シンアルの地」の平地の「バベル」です(2節。参10:10)。ノアの息子たちの子孫は、一つの言語を話していました(1、6節)。彼らは一箇所に定住し、「町」と「頂が天に届く塔」を建設しようと計画しました(4節)。彼らは「れんが」や「瀝青(アスファルト)」を用いて、言い換えるならば当時の先端技術をもって、巨大な建築プロジェクトを開始しようとしたのです。
しかし、このプロジェクトに神は介入されます。神は何を問題とされたのでしょうか。その理由は明確には記されていませんが、推測できる点はいくつかあります。
一つは、神の命令に対する不従順です。神は箱舟を出たノアたちに、「地に満ちよ」(9:1)と命じられていました。しかし人々は、地から「散らされる」ことを恐れ、一箇所に町を建設し、自分たちの力で快適さと安全を求めて、そこに住み着いてしまったのです。
もう一つは、傲慢な野心です。それは、彼らのプロジェクトの目的や動機が、「われわれは自分たちのために、…建てて、名をあげよう」(4節)とのことばに示されています。建築の目的は、神に栄光を帰し神の名をあがめることではなく、自分たちの力を誇示し自分たちの名を大いなるものとしようとする、利己的で傲慢な野心にありました。
神が語られた「このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない」(6節)とは、どのような意味でしょうか。神は、プロジェクトの先行きを憂慮していることは確かですが、彼らに不可能を可能にする力があると考えておられるわけではありません。彼らが立てた悪い企ては、もはや彼ら自身では止めることができない状態になっている、という意味なのでしょう。
神は、人々の「さあ、~しよう」に呼応するように、神ご自身も「さあ、…しよう」(7節)と行動されます。神は建造物を破壊されるのではなく、建築プロジェクトそのものを進めることができないように、彼らの「ことばを混乱させ」、互いに通じないようにされました。その結果、彼らは意思の疎通ができなくなり、町の建設を断念せざるを得なくなりました。この出来事は、単なる神のさばきというよりも、彼らの悪の拡大を抑制するための、予防的なさばきであったと言えるのではないでしょうか。
今回の出来事から、どのようなことを読み取ることができるでしょうか。一つは、バベルの塔の出来事が、神を見失った人々が突き進もうとする企てへの警告である、という点です。テクノロジー(科学技術)の発展はめざましく、私たちの生活を大いに便利にしてきました。しかし一方で、「ディープ・フェイク」(AIを用いて偽の動画や音声を作成する)など、技術の悪用によって深刻な被害を受ける人々も現れています。それを抑制する倫理が追いついていないのが現状です。神を見失うなら、人は「何ができるか」に突き進み、もはやそれに歯止めをかけることができなくなるでしょう。結果として、人類は自分の手で自分の首を絞める方向に向かっているのではないでしょうか。人は神とともに歩むとき、「何ができるか」ではなく、「何をしてはならないか」という基準をもつことができます。そして、それは人を幸いへと導くものとなるのです。
ー 二つ目のポイント、神は野心を砕かれる 省略 ー
このメッセージは2026.1.25のものです。


