キリストのへりくだりと高挙 ピリピ2章5-11節
今回の箇所は三つに区分できます。5節はパウロの勧告、6–8節はキリストのへりくだり、9–11節はキリストの高挙です。
5節は、1–4節の一致への呼びかけと6-11節の「キリストの賛歌」とをつなぐ役割を果たしています。「キリスト・イエスのうちにあるこの思い」とは、教会の一致のために必要な態度、すなわち利己的にならず、へりくだって他者を配慮する思いです。パウロは、その究極の模範としてキリストご自身を示しています。
続く6–8節では、キリストが何をなさったのかを、受肉前・受肉(神の御子が人の性質をとられたこと)・受難の順に語っています。まずパウロは、6節で受肉前のキリストについて「神の御姿であられる」と記します。「神の御姿(モルフェー)」とは、キリストが神の本質を備えておられたことを意味します。次の「神のあり方」(直訳「神と等しくある」)とは、その神性をさらに強調する言葉です。そして「捨てられないと考えずに」(直訳「固執すべきこととは考えずに」)とは、神としての力や特権を利己的に用いようとされなかったことを示します。名誉や地位を重んじたギリシア・ローマ文化に親しんでいた人々にとって、神が自らの力や特権を自分の利益のために用いないということは、驚くべきことであったに違いありません。
7節は受肉に関する言及です。「ご自分を空しくして」とは、その後に続く表現によって説明されます。歴史的には「空しくする(ケノオー)」を「神性を放棄すること」と理解する説がありましたが、ここでの意味はそうではありません。キリストは神性を捨てて人となられたのではなく、完全な神性に加えて完全な人性をとられたのです。「しもべの姿(モルフェー)をとり」とは、権利を持たない奴隷のように仕える者となられたことを指します。「人間と同じようになられました」とは、罪を除いては完全に人となられたことを意味します(ローマ8:3参照)。さらに「人としての姿をもって現れ」の「姿(スケーマ)」は外見を意味し、人々がキリストを見たとき、まさしく人間としての姿をしていたことを示しています。
8節は受難の極みにあたる「死」に言及します。「自らを低くして」とは、2:3の「へりくだって」に対応する句であり、その低さの極みを「死にまで」と説明します。しかも、どのような死かといえば、「十字架の死にまで」と続きます。十字架は最も恐ろしい処刑法であり、最も屈辱的な死でした。パウロは「死にまで」を二度繰り返し、さらに「十字架」に言及することで、キリストのへりくだりの深さを強調しているのです(ヘブル12:2参照)。
6–8節は、キリストが最も高きところから最も低きところへと下られたことを示しています。パウロはこのキリストのへりくだりを模範として、ピリピの信者たちに一致を勧めています。私たちを愛するがゆえに(Ⅰヨハネ3:16)、父のご計画に従順に従われ、救いの御業を成し遂げてくださった主の前で、私たちはうぬぼれて他者を見下し、利己的になるのではなく、愛と謙遜をもって一致していきましょう(参 1-4節)。
- 9-11節のキリストの高挙については省略 -
このメッセージは2025.9.14のものです。


