パウロの関心と情熱 ピリピ1章12-26節


 パウロは、ピリピ教会に対して、投獄されている自分の近況を知らせ(12-18b節)、そして、今後の見通しを語っています(18c-26節)。今回の箇所の前半には、パウロの関心が福音の前進にあることが、そして、後半には、パウロの情熱がキリストの栄光にあることがわかります。

 パウロが、「私の身に起こったこと」(12節)と言っているのは、「投獄されていること」(13節)を指しています。投獄は福音の後退や妨げとならずに、むしろ「福音の前進」となったというのです。具体的にどのようなかたちで「福音の前進」となったのかを二つあげています。一つは、自分が投獄されている理由が、犯罪のためや政治犯としてではなく、「キリストのゆえ」であることを自分を監視している「親衛隊」の人々やその他の人たちに証しする機会となったということです。パウロが、自分は鎖につながれていても神のことばは鎖につながれていないことを証ししている、と言い換えてもいいかもしれません(参 Ⅱテモテ2:9)。神は不利な状況を用いて、本来なら出会うことのない人々との接触の機会を与えておられたのです。

 もう一つは、「兄弟たちの大多数」(14節 ローマのクリスチャンたち)が勇気をもってキリストの福音を伝えるために振るい立ったということです。パウロの模範が彼らに確信を与えたのです。迫害に直面すると、恐れて沈黙したりすることは自然な反応かもしれません。しかし、そうではなかったのです。おそらく、彼らの大胆な宣教の背後には、聖霊の働きがあったことと想像されます(参 19節、使徒4:31)。

 パウロは、福音を伝える兄弟たちの間に、二つの動機をもって伝える者たちがいたことを知らせています。一つは誤った動機で伝える者たちで、彼らは「ねたみや争いから」伝えていました(15節)。「ねたみや争い」は、古い性質である「肉」に支配された生活を特徴づけるものです(ガラテヤ5:20-21)。さらに、17節では、そうした人たちは「純粋な動機から」ではなく、「党派心」から、パウロを「苦しめ」ようとして伝えていると言っています。彼らは競争心をもって、自分たちの奉仕の拡大という野心をもち、さらに何らかの形でパウロを貶めようとしていたのです。18節の「見せかけ」は、彼らが誤った悪い動機を覆い隠し、あたかも純粋な動機からであるかのように装っていたということです。

 もう一つの正しい動機をもって伝える者たちについては、「善意から」(15節)「愛をもって」(16節)「真実で」(18節)、という言葉が用いられています。キリストにある喜びから愛をもって、彼らは投獄されているパウロが果たせない使命を代わりに果たしたいと願ったのです。

 パウロは、誤った動機から福音を伝える者たちのことを残念に思っていたでしょう(直接非難してはいないが)。しかし、動機はどうであれ、正しい福音が伝えられることを喜んでいました(18節)。もし、誤った福音が伝えられていたなら沈黙してはいなかったでしょう(ガラテヤ1:6-9)。

 パウロが本来喜べないような状況の中にあって喜ぶことができたのは、彼の関心が自分ではなく「福音の前進」にあったからです。うれしいことがあった時に喜ぶことは容易です。しかし、喜べないような状況の中で喜びを見出すためには(参 Ⅰテサロニケ5:16)、視点を変える必要があるのです。 

  - パウロの情熱(18c-26節)については省略 –



         このめっせージは2025.8.31のものです。