ラハブの信仰 ヨシュア記 2章
2章の中心人物である「ラハブ」は、旧約聖書でも新約聖書でも「遊女」(ヨシュア2:1,6:22,25,ヘブル11:31,ヤコブ2:25)と呼ばれています。彼女はお金のためにからだを売っていた女性でした。
ヨシュアが斥候を派遣した「エリコ」は、パレスチナ最古の町と言われ、堅固な城壁で囲まれていました(6:1)。ヨシュアは情勢を探るために「ひそかに」二人の斥候を遣わしましたが、斥候の侵入の情報は警戒していたエリコの王にもたらされ、王は使者たちをラハブのもとに遣わして、斥候の引き渡しを求めました。しかし、ラハブは二人の斥候を見つからないように屋上の「亜麻の茎の中」にかくまいました。もしうそがばれたなら彼女には重い処罰が下されたことでしょう。しかし、彼女は斥候を突き出すのではなく、かくまうことを選んだのです。その理由は、彼女の信仰によることが、後の彼女のことばから分かります。
ラハブが斥候をかくまったことは、「主(ヤハウェ)」(9,10,11,12節)に対する「信仰」に基づくものでした(ヘブル11:31)。ところで、異邦人である彼女はどのように「主」に対する信仰を持つに至ったのでしょうか。誰も知らないことを信じることはできません(参 ローマ10:17)。彼女は何を聞いたのでしょうか。二つのことをあげています(10節)。一つは、イスラエルの民を強大なエジプトから脱出させた主が「葦の海の水を涸らされたこと」(出エジプト14章)。もう一つは最近の出来事で、主によって導かれた民がヨルダン川東側を支配していた「二人の王シホンとオグ……を聖絶したこと」(民数21:21-35)です。ヨルダン川西側の地域でもいろいろな神々が信じられていたことでしょう。しかし、彼女は聞いたことに基づいて、イスラエルの民が信じ、イスラエルの民を導いておられる「主」は、単なるイスラエルの部族神ではなく、「上は天において、下は地において」、真の神であるとの確信をもったのです(参 申命4:39,Ⅰ列王8:23)。その神に導かれた民のために、エリコをはじめとする西側の住民たちは恐怖に支配され、絶望的な思いに満たされたことを彼女はよく知っていたのです(9,11節)。
ラハブは、イスラエルの民にはだれも立ち向かえず(参 1:5)、主が約束された地(参 9節)の征服はもはや時間の問題であると考えています。そして滅びを免れるためには、その主に信頼するほかないと考え、二人の斥候に自分とその家族や親族たちの助命を求めました(12,13節)。二人は、自分たちのことを口外しないこと(14,20節)、自分たちをつり降ろした窓に赤いひもを結び付けておくこと(18節)、ラハブの家に彼女に連なる者たちを集めておくことを条件に(18-19節)、助命を誓約しました。
6章22-25節を読むと、ラハブの家に集められていた者たちは滅びから免れたことがわかります。一見、ラハブはその「行い」によって救いにあずかったように見えるかもしれません。しかし、そうではありません。彼女の信仰がその「行い」によって実証されたことを示しているのです(ヤコブ2:25)。今日においても、救いは行いではなく、信仰によります(エペソ2:8,9)。私たちのどのような行いも救われるためには神の前に不十分です。ですから、神はご自身が遣わされたキリストを信じることを通して、救いの道を備えられたのです。
〈 マタイ1:5 ラハブの将来については省略 〉
このメッセージは2026.8.23のものです。


